第1章 始まりと終わり 前編

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 取材で一度つきあった人物と、ずっと接触しつづけるとは限らない。しかし植村直己とは「無一文の一千日世界探検」が掲載された後も、つきあいが途絶えなかった。急速に親しくなっていったわけでもないが、ゆっくりと時間をかけてつきあいが深まり、互いに気心が知れるようになっていった。少なくとも私はそう感じていた。

 たとえば1969年の初夏、日本山岳会のエベレスト遠征隊の偵察隊員となった彼は、ネパールへ出発する前に訪ねてきてくれた。

 この年、彼は二度ほど帰国し、最後は越冬隊員としてネパールに残った。越冬したのは標高3800メートルのシェルパの村、クムジュンである。植村はここで翌70年の本隊遠征のために、屈強なシェルパの確保、氷河のクレバスに設置する丸太の確保などの仕事をした。

 しかし、越冬のため再び日本を出て行く前に彼がしてくれた話に、私は心惹かれた。シェルパの村で現地の人びとと一緒に生活する楽しさ。その楽しさに溺れないように、毎日トレーニングして、しっかり高度順化をすること。彼はポツリポツリとそんなことを語ったのだが、彼は体調を整えて頂上に立つ意志をひそかに固めていたのである。私は彼が出国してからそのことに気づき、またネパールからもらった手紙からもその気持を察した。

 エベレスト山麓の村でひとり越冬して、目標に対して心身の準備をする。彼はそんなふうにはっきり宣言したわけではなかったけれど、黙々とそれを実行した。

 考えてみると、現地の人びとに寄り添うように暮らして、その土地のことを体で覚えるというのは、植村がこれ以後にもとった方法であり、これ以前にもたとえばアマゾン河の筏下りのときもこの方法を用いた。植村の独自性はすでにこの時代でも見ることができたのだった。

世界放浪中の1965年、明治大学山岳部遠征隊の一員として訪れたネパールのゴジュンバ氷河にて。エベレストにアタックするずっと前だが、『青春を山に賭けて』(文春文庫)に「彼らと一緒にキャラバンをやることは実に楽しい」と植村は書いている
(写真提供:文藝春秋 © Bungeishunju)

 日本山岳会エベレスト登山隊の登攀隊長は明治大学山岳部の大先輩、大塚博美である。大塚は後輩である植村にクムジュンで越冬させた周到な人物だが、植村を頂上アタックの切り札と考えていたふしがある。

 70年5月21日、植村直己は松浦輝夫隊員とともに世界最高峰の頂上に立った。日本人として初めてのことだった。