「脳にはなにもしていないときにも活性化している『デフォルトモードネットワーク』という自発的な活動部位の一群があるんですが、健常者と比べて慢性の痛みを持っている人ではその活動がより活発に維持されている事がわかっています。すなわち脳が十分安静化できていないということですが、それらの関係もあって、一部の神経伝達物質の量が減ったり、同時に部分的な脳のシュリンク(縮小)だとかも出てきます。部分的な脳の縮小については、20世紀のうちにPTSD(心的外傷後ストレス障害)の人の脳で海馬が小さくなっているのが見つかったのが始まりで、その後いろんな追試が行われて、21世紀になってからは、慢性腰痛でもそんなことが起こっているとか、後で話をしますがCRPSという重たい疾患や、線維筋痛症という今のところ原因がはっきりしない病気でも起きていることも分かってきました」

 これらが引き起こされてくるのと同時に、慢性疼痛の心理的、社会的な側面も深まっていく。社会環境や人間関係によって「修飾」されると聞いても、ぼくは最初ピンと来なかったのだが、痛みへの恐怖や不安から、患部を動かさないことで起きる、関節拘縮や骨萎縮など、直感的にも変化がはっきり理解できる事例を知って、まずは納得した。なにしろそれは「目に見える」ものだから。でも、それに限らず、信用や仕事を失って負のスパイラルに陥ったり、薬物や家族や医師に依存するなど、様々な要素が絡まってきて、痛みの悪化を進めてしまうのだという。

「以前は、『痛みをなくすには悪いところを治せばいい』という『生物医学的モデル』で治療をしていたんですが、実際には心理や認知の問題をも含めた悪循環の中で、慢性の疼痛がひどくなっていくわけですから、今では、痛みが心理的な問題や社会環境によって大いに左右されることを織り込んだ『生物心理社会モデル』に依拠しています。『心理的な問題』などというと、『気のせい』『気の持ちよう』『心因性』だとか言われてしまいそうですが、実際に、神経生理学的な異常や、脳へのダメージなどとしても観察されるわけです。最近は僕たちも『心因性』という言葉はできるだけ使わないようにしています」

「実際には心理や認知の問題をも含めた悪循環の中で、慢性の疼痛がひどくなっていく」と牛田さんは言った。
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 このあたりは、「こういう原因があってこういう結果になる」というふうな単純な因果関係に落とし込んで語るのが、本当に難しい。様々な要素が、原因であり、結果でもあるようなネットワークを形作っているのだから。その「要素」には、これまで挙げただけでも、大もとになった怪我、動かさないことによる弊害、「動かさない」ことを固定化してしまう恐怖や不安、家族などとの依存関係、不眠、薬物や医師への依存などがあるわけだし、ミクロなことに目を移せば、神経生理学的な反応や、脳の働き、内分泌系の働きなどが常に関係している。

 牛田さんは、「とらえどころなく動いていくアメーバのようなもの」「小魚の群れがぱっと反応していっせいに動いて形を変えていくようなイメージ」といった表現をしていた。アメーバというのは、時と場合によって形を変えて本当にとらえどころがないということだし、「小魚の群れ」というのは、どの一尾が最初に動くかというのはよく分からなくても、結果として、全体がわーっと動いて形を変えたり、別の方向に行ってしまったりするようなイメージだろうか。

 次回は、具体的な患者さんの事例について教えてもらいつつ、特に心理的・社会的な側面も含めた、慢性疼痛の成り立ちをもっと見ていこう。

つづく

牛田享宏(うしだ たかひろ)

1966年、香川県生まれ。愛知医科大学医学部教授、同大学学際的痛みセンター長および運動療育センター長を兼任。医学博士。1991年、高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、神経障害性疼痛モデルを学ぶため1995年に渡米。テキサス大学医学部 客員研究員、ノースウエスタン大学 客員研究員、同年高知大学整形外科講師を経て、2007年、愛知医科大学教授に就任。慢性の痛みに対する集学的な治療・研究に取り組み、厚生労働省の研究班が2018年に作成した『慢性疼痛治療ガイドライン』では研究代表者を務めた。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、ブラインドサッカーを舞台にした「もう一つの銀河のワールドカップ」である『風に乗って、跳べ 太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。

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