まずは、とても素朴な部分から。

「痛みって、なんですか」とぼくは牛田さんに問うた。

 本当に痛みとは、本人にとっては限りなくリアルだ。

 しかし、あくまで主観なので、その痛みを、たとえば「痛みの結晶」みたいな形にして取り出すことはできない。では、痛みとはそもそも何なのだろうか。

「国際疼痛学会の、痛みの定義を決めるタスクフォースのメンバーに僕もなっているんですが──」と牛田さんは切り出した。

「今、ちょうど最終案を作っているところでして、それによると、組織の損傷(tissue injury)があったときに、あるいは、そういった損傷を感じるようなときに起きる、不快な感覚・情動体験、というものです。組織の損傷は、臓器の損傷(organ damage)とした方がよいのではないかという議論もありましたけれど、感覚・情動体験である、というのがまずは重要なところです」

 感覚・情動体験、というのは、つまり、感覚体験(sensory experience)と情動体験(emotional experience)の両方ということだ。

 感覚体験というのは、外部からの刺激の信号が感覚器官を通じて中枢に伝わり、その結果、ぼくたちにもたらされる、熱いとか冷たいといった「感覚」についての体験だ。

 一方で、情動体験は、外部からの刺激に基づきつつ、それによって引き起こされる、興奮や快不快といったことを指す。ここは英語の「エモーショナル」の意味を思い起こすとニュアンスがつかみやすいかもしれない。

 というわけで、痛みというのは、感覚体験であると当時に情動体験でもあるというのが、とても大事な部分なのだという。

 牛田さんは、さっそく含蓄深い表現をした。

「痛み刺激が加わったときの痛覚と、痛みは違うということです。痛い感覚があっても、辛くなかったら痛みではないんですよ」

 痛い感覚と、痛み、というのは違う!

 たしかに、痛い感覚があったからといって、それが必ずしも不快な情動につながるわけではない。感覚体験と情動体験がつながってこその「痛み」だというのは、言われてみればなんとなく分かる。

 それにしても、日常の言葉の水準でも、「痛み」をちょっと深掘りしてみると、その奥にはさっそく深淵が口を開けている。そんな印象を持った。

つづく

牛田享宏(うしだ たかひろ)

1966年、香川県生まれ。愛知医科大学医学部教授、同大学学際的痛みセンター長および運動療育センター長を兼任。医学博士。1991年、高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、神経障害性疼痛モデルを学ぶため1995年に渡米。テキサス大学医学部 客員研究員、ノースウエスタン大学 客員研究員、同年高知大学整形外科講師を経て、2007年、愛知医科大学教授に就任。慢性の痛みに対する集学的な治療・研究に取り組み、厚生労働省の研究班が2018年に作成した『慢性疼痛治療ガイドライン』では研究代表者を務めた。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、ブラインドサッカーを舞台にした「もう一つの銀河のワールドカップ」である『風に乗って、跳べ 太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。

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