まったくもって個人的な話だが、この5年ほど、親指付け根の関節痛に悩んでいる。
きっかけはささいなことだ。キャッチボールで変化球をいろいろ投げて曲がり具合を楽しんでいたところ、親指付け根がピキッとなるような感覚があり、軽く痛んだ。1週間もすれば治るだろうと思っていたのだが、残念なことに、以降、ずっと痛い。
激痛ではないものの、お箸をうまく使えなくなったり、缶詰やペットボトルの蓋を開けるときの「ねじる」動作が辛かったり、生活上の不都合も多少はある。「手の外科」という専門医を訪ねて、注射を打ったり、装具をつけて「鍛える」治療を試みたりしたものの、一向によくなる気配はなく、2年ほど通って、諦めた。そうこうするうちに、ジャワ島の田園地帯にて乾季の水田の凹凸に足を取られて捻挫をして、そこも痛みが慢性化した。ふとまわりを見渡しても、年齢とともに慢性的な痛みを抱える人が増えていくようだ。
しかし、あるときふと疑問に思った。
なぜ、痛いんだ? と。
素朴な考えで言うと、痛みというのは警報のようなものだ。たとえば、鋭利なものをうっかり触れてしまったとしたら、痛みがあるからこそあわてて手を離し、大きな怪我を防ぐことができる。あるいは、喉が痛ければ風邪かもしれないし、胃痛なら、食べすぎや、食あたりや、あるいは何かもっと危険な病気の兆候かもしれない。病院に行ったほうがいい。
こういった痛みは、それ自体不快であることはなはだしいが、ぼくたちの生存上、大切な身体の情報を伝えてくれる必要不可欠なものだ。
でも、慢性的な痛みは、どうだろう。
治るわけでもなく、悪くなるわけでもなく、ただずっと痛いという場合もあるわけで、痛みが持っているはずの本来の「警告機能」が機能していないこともあるように思う。そんな場合は、本当に何のために痛いのだろう。
にもかかわらず、今、日本で「3カ月以上の慢性疼痛」を持っている人は実に2000万人以上と推定されている(※)。
まったくもって厄介だ。個人としても、社会としても。
※日本における慢性疼痛保有者の実態調査 : Pain in Japan 2010より
A Nationwide Survey of Chronic Pain Sufferers in Japan