第5回 「移民」って、「日本人」ってなんだろう?

「私が20代の時期は、ちょうどバブルの時代で、さまざまな外国人が日本に来るようになり、彼ら彼女らとふつうに接するようになりました。すると、単純におもしろいんです。違っているのがすごくおもしろい。えー、こんなもん食べてるとか(笑) 最初はちょっと食べにくかったものが、慣れるとおいしくなったりとか、そういった体験がベースにありました。オーバーステイの人も多くて、いろんな問題に直面するんですが、みんな明るいんです。それで、そんな体験から、私にとって、こういった移民とか外国人と呼ばれる存在が楽しいっていうふうになって、気づいたらここにいたんです」

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 ここに来て、ぼくは、おもわず、「あ」と声をあげそうになった。

 話を聞いたり、関連書籍を読んだりしていると、「人身取引」だとか「奴隷的状況」だとか、ひどい話ばかりが出てきて、本当に大変なことになっていると分かる。それが日本で行われていることに対して、失望させられる。

 それはとても大切なことで、ぼくも鈴木さんから聞いた話を、主に「ひどいことが起きているので背景から理解しよう」とばかりに書いた。文字で伝える中で、鈴木さんの明朗で前向きな語調はかなりのところ失われたと思う。

 しかし、今、鈴木さんが指摘したのは、そのような構造の中にはめ込まれながらも、やはりそこにいるのは、まずは「人間」だということだ。

「正義論で語る以前に、まず、おもしろいんですよ。確かに、困ることはたくさんありましたけど、それは別に日本人同士だって、嫌な人とか、困ったこととか、トラブルはあるわけだから。多分、ジャパゆきさんの問題とかでもそうですけど、どこを見るかによって、可哀想と見えることと、したたかだって見えるのと、両方なんです。1人の人に、多分、いろいろな側面があって、それが見えてくるんです。追いつめられて従属的に生きざるを得ない部分もあるけども、そのなかで主体的に人生を選択し、しなやかに強く生き抜いているって、それは、私にとってとても興味深く、魅力的なことだったんです」

 すごく困っていたり、それをしたたかに切り抜けたり、そして愉快だったり! それらは別に排他的なわけではなくて、同じ人の中に、同じ状況の中に共存しうる。まさにそうだ。

「勉強して移民や外国人について学んでいくと、どうしても距離があるかもしれないけども、出会って話して、一緒に食べたり飲んだりすれば楽しいです。いろんな面を見ることができて。それは本当にある面で、翻って自分自身を見つめて、日本人である、日本で生まれ育って今ここにいる私が、今生きていることをもう一回問い直すことができる。いろいろなことが当たり前のようにできている、この私っていうのは何なのかと思ったりもしますね」

 ここまで話をして、ぼくは自分自身がこれまでの間、よく理解していなかったことが、大づかみに言って、2つの方面に分かれていると気づいた。