信州大学人文学部の伊藤盡教授。
信州大学人文学部の伊藤盡教授。

 信州大学人文学部の研究室で、伊藤盡さんと相対している。

「イム・イトウ・ツクス、マエ・ゴヴァンネン、ラスト・ベス・ニン」

 伊藤さんが語りかけた言葉は、ぼくの耳にはただの音の羅列だ。しかし、それが言語としての秩序を持っており、意味を持っていることは分かる。耳に心地よい言語であるとも感じる。

 これは映画『ロード・オブ・ザ・リング』で使われたエルフ語で、あいさつの言葉だ。「私は伊藤盡です。お会いできて光栄です。私の言葉を聞きなさい」という意味だという。

 トールキンが創造したエルフ語は、今やその言語に魅了された人々によって拡張され、ネオ・シンダリン(シンダール・エルフの新しい言語)と呼ばれる、より広範な設定を持ったものが開発されている。映画に使われているのは、まさにそれだ。8世紀頃まで話されていた絶滅言語トカラ語(最も東側で話されていたインド・ヨーロッパ語とされ、独特な線文字で有名)の研究者で、優秀な文献学・比較言語学者であるデビッド・サロによる貢献を経て(『A Gateway To Sindarin』という労作がある)、今はファンの間で通じる一種の共通語にまでなっているそうだ。『くまのプーさん』のネオ・シンダリン訳を作るなどの動きもあって、なかなか楽しいことになっている。

デビッド・サロの『A Gateway To Sindarin』。サロもトールキンファンの比較文献学者で、ネオ・シンダリンが発展する礎を築いた。現在でもファンたちが一種の共通言語として共有し、表現がどんどん増えているという。
デビッド・サロの『A Gateway To Sindarin』。サロもトールキンファンの比較文献学者で、ネオ・シンダリンが発展する礎を築いた。現在でもファンたちが一種の共通言語として共有し、表現がどんどん増えているという。

 一方で、イングランドの神話を自らの手で再創造したいという意識があったトールキンは、その成果を『指輪物語』などに惜しげもなく注ぎ込んだ。オックスフォード大学の教授職の立場にあった彼にとって、架空の神話や言語を学問的な業績として発表するわけにもいかなかったというのが1つの説明で、その結果、『指輪物語』はおそろしいまでの稠密(ちゅうみつ)な学術的設定を持った物語となった。

「『指輪物語』の中には中世の文献にある言葉がちらほら出てくるんです。たとえば、エントという巨人が登場しますが、その言葉自体は古英語、すなわち今から1000年前まで使われていた英語の単語です。意味は『巨人』ですが、実はその言葉は、必ず『すばらしい技術を持つ者』という文脈で使われます。物を構築し、普通の人間にはとても作れないほど巨大な建物とか、武具とか。そして『指輪物語』の中で、エントは戦いに加わるんですけど、最初は敵が作ったものを壊すっていうような描かれ方だったのに、最後はダムを作って、せきとめた水が相手方の陣地を水浸しにしてしまうという戦い方をするんです。それを考えたのは、まさにトールキン先生が古英語を話す人々が考えたエントのイメージを自分の物語の中にそのまま持ってきたからだと考えています」

 エントは古英語だということだが、そもそも、エルフ、ドワーフ、トロールといった作中の種族も、古い文献や伝承に由来するものだ。

次ページ:エルフ、ドワーフ、トロールとはそもそも何なのか

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