第3回 エルフ、ドワーフ、オージン――バイキングの活躍と北欧神話の浸透

「現在の北イングランドのヨークシャーの教会の中にある石碑の写真です。10世紀のものだと分かっていて、これくらい古いものはもう博物館に置かれていてもいいものなのですが、実は今でも地域の教会にそのままあります。そして、教会の中なのに、北欧神話の神様が描かれていると言われています。2羽の鳥が肩に乗って、耳に何かを話しているんですけど、これは北欧神話の主神たるオージンに、世界のあらゆる情報を見聞きしたカラス2羽が告げ知らせているシーンだろうと。北イングランドのヨークシャー地域は、ちょうどその頃にバイキングが移り住んだ地域なんです」

 これはまた実に面白い! 10世紀と言えば、バイキングの全盛期で、彼らは北大西洋の各地を股にかけた。ノルウェー、シェトランド諸島、フェロー諸島、アイスランド、さらにはグリーンランドや、北米にいたるまで! そんな中で、バイキングの活動領域の一部だったイングランド北部では、北欧神話の主神オージンの石碑が教会の中に堂々と置かれ、それが21世紀の今まで生き延びているというのである。10世紀のアイスランドの島民は全島集会で、家の中でこっそりとお供え物をするのはオーケイ、というようなことを決めていたけれど、こちらは教会の中というのだから驚かされる。

「イングランドに渡ってきた北欧人たちはキリスト教に改宗するんですが、この石碑が作られたのはその百年後くらいなのに、にもかかわらず自分たちの先祖伝来の文化というものをきちんと継承していたらしいということです。アイスランドのように文字としては残さなかったけれども、その歴史はさらに21世紀までちゃんと息づいている。それはもう地域に住む人たちの文化でもあることになるんですね。普通はキリスト教というと一神教で、多神教などは排除するっていうイメージがあるんですが、人間は実はもっと多様性のある包括的な自由力を持っていたということの1つの証ではないかと考えます」

 ここに来て、トールキンが創造した言語と神話、イングランドの神話を再現したいというモチベーションなどの話から、うわーっと大きな展開を見せる。それは北欧神話や伝承といったことは、『指輪物語』を経由せずとも、今を生きる我々に直接的に強く鋭く響いてくる部分があるということだ。伊藤さん自身の研究も、トールキンという偉大な滑走路を走り、大きく関心の翼を広げていくことになる。

「例えば、北欧神話と言いましても、現在の北欧であるデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、アイスランド、フェロー諸島といった地域をはるかに超える広がりを持っています。北欧神話を信じていた人たちが、バイキングとしてヨーロッパのあちこちを行き来していましたし、さらには北アメリカ大陸にまで渡っていることが彼らのサガと呼ばれる伝承で知られていて、今では考古学的な発見も相次いでいます。もしも私たちが北欧神話のことを知らなかったならば、北イングランドの教会の石碑を見ても、何の意味があるだろうかって分からないと思うんですね。でも、たまたまアイスランド人がエッダの写本の中に残しておいてくれたがゆえに、この何ともいえない愛らしい表情の石碑には実は意味があるんだと知ることができます。それをただ解読するだけではなくて、自分たちの文化なのだということを意識し、認識することができるということなんですね」

 エッダとサガいう言葉が出てきた。

 北欧神話やバイキングなどについて語る時にしばしば言及されるこういう言葉は、独特の響きがあって、「ここではないどこか」への憧憬につながっているようにも思う。そして、日本でも伊藤さんのように、数は限られているけれど、熱心な研究者を得てきた分野でもあって、それが次回のテーマである。

つづく

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伊藤盡(いとう つくす)

1965年、東京都生まれ。信州大学人文学部英米言語文化コース教授。慶応義塾大学文学部卒業後、明治学院大学大学院博士前期課程、慶応義塾大学大学院文学研究科博士後期課程に進学。1991年から1年間のアイスランド大学留学を経て、複数の大学で講師や准教授を務めた後、2016年から現職。中世英語および北欧言語を専門とするが、特に英雄叙事詩『ベーオウルフ』やバイキングの英国移住時期の言語文化(古英詩、年代記、法律文書、北欧神話の記録など)資料研究を中心とする。著書『『指輪物語』エルフ語を読む』(青春出版社)や共著『アイスランド・グリーンランド・北極を知るための65章』(明石書店)、訳書『貴婦人ゴディヴァ:語り継がれる伝説』(慶應義塾大学出版会)、『指輪物語 フロドの旅―「旅の仲間」のたどった道』などのほか、『図説 ヴァイキング時代百科事典』(柊風舎)、『J.R.R.トールキン―世紀の作家』(評論社)、映画『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビットの冒険』シリーズのエルフ語の翻訳監修も務めた。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、肺炎を起こす謎の感染症に立ち向かうフィールド疫学者の活躍を描いた『エピデミック』(BOOK☆WALKER、集英社文庫)、クライミングと地学でそれぞれの五輪を目指す高校生の青春小説『空よりも遠く、のびやかに』(集英社文庫)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「色覚の進化」から派生した『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)など。新型コロナ感染症の流行初期から「第一波」を乗り切るまでの体験をまとめた『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(中央公論新社)で2021年科学ジャーナリスト賞を受賞。近著は、17世紀に日本に来ていた鳥ドードーの足跡を追いかけた探究の物語『ドードーをめぐる堂々めぐり――正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。