「トールキン先生は南アフリカ出身なんですが、自分は両親と同じイングランド人だという自己認識を持っていました。イングランドにはなぜ神話がないかというと、イングランド人は、おそらく北西ヨーロッパ人の中で、アイルランド人に次いで早い時期にキリスト教に改宗した人たちなんですね。その結果、彼らは自分たちの神話をキリスト教の視点からしか文字に残さなかったんです。これはトールキン先生にとって、1つ目の悲劇でした。もう1つの悲劇は、11世紀半ば過ぎ、1066年、フランスからやってきたウィリアム征服王と後に呼ばれる王様による、いわゆるノルマン征服です。その結果、上流階級のすげ替えが起き、英語という言語は正式な言語としては認められなくなってしまいました。その2つの悲劇を知的に経験したトールキン先生は、イングランド人にとっての神話を復元しようとしたんです」

 イングランドの神話は、すべてキリスト教の観点から再編されている。例えば、我々にはケルトの「古い物語」と思われる、アーサー王の聖杯伝説やその中で語られる神話が、結局はキリスト教的なフィルターを通して残されたものだということを思い起こすと納得しやすいかもしれない。

 ではイングランドの神話を復元するために、トールキンはまず何をしたのだろうか。

「中世初期の英語、また英語の親戚の言語というべきドイツ語、北欧語、ゴート語、また隣人の言語であるウェールズ語などで書かれたものを必死になって読みました。その古い意味や発音の中にイングランド人が失ってしまった神話の残滓が残っているのではないかと考え、残されている写本を丹念に読み続けたんです。一般の学者たちがこんなものは意味がないというようなものにも絶対何か意味があるだろうと。その時のトールキン先生の中心的な業績に、英語で書かれた最も古い英雄叙事詩『ベーオウルフ』の研究があります。恐らくは7世紀ぐらいに作られたのではないかとされていますが、現在ではたった1冊の写本にしか残っておらず、その写本が書かれたのは10世紀終わりから11世紀初めといわれています。イギリスの大英図書館の宝物の1つなんですけれど、18世紀に火事で外側がボロボロに焼け焦げながらもなんとか今に伝わっています。これは英語の神話を求めるトールキン先生にとっても、とても意味があるものでした」

トールキンが現代英語に訳した『ベーオウルフ』。刊行は没後の2014年だった。
トールキンが現代英語に訳した『ベーオウルフ』。刊行は没後の2014年だった。
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 たった1つの写本で伝えられる『ベーオウルフ』は、英雄ベーオウルフが、巨人や竜と戦う叙事詩で、今でいうファンタジー的な内容だ。トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』への影響も指摘されている。トールキン自身、1920年代に『ベーオウルフ』の現代英語訳を行っていたのだが、それが出版されたのは没後の2014年になってからだった。

「トールキン先生はその最も古い英雄叙事詩の中に、イングランド人の祖先が残した神話のかけらを発見しようとします。トールキン先生は、自分のことをフィロロジストというふうに言っているのですが、通常、英和辞典ではそれは言語学者とされています。でも、もう1つの訳語として、文献学者ともいえるんですね。語源は、フィロはギリシャ語で愛、ロジストのロジはもちろん学問という意味もあるんですが、本来はロゴス、言語、言葉です。つまり、言葉を愛する学問がトールキン先生の目指したものであり、トールキン先生は自分のことを言葉を愛する者だと認識していたということが分かります」

 そして、トールキンの北欧への関心もここに根ざしている。

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