第2回 あの「エルフ語」はなぜ、どのようにつくられたのか

「言葉を愛する者にとって言葉の原風景となるものが、間違いなく神話という形で今の私たちの間に残っているものだとすると、自分たちでは残さなかった神話に最も近いものを残したのが、トールキンにとっては北欧人でした。北欧人、特にアイスランドの人は、ここに写本のレプリカのようなものがありまして、キリスト教に改宗したのが西暦紀元1000年といわれていますけれど、その頃の法律の文書なんですね──」

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 伊藤さんは、その「法律文書」を掲げて、内容を読み下した。

「アイスランド人は全員唯一絶対神のキリスト教の神を信じなければならないが、家の中で異教の神に捧げ物をしても、他の人に分からなければよい」

 アイスランド人は、年に一度、島の平原に集まって全島集会(アルシング)を行い、島の法を決めていたので、これは全島民によって承認された決まりなのである。改宗はしたが、古くからの神々への信仰も、家の中でだけでこっそりやる分にはかまわない、と! キリスト教が最も不寛容なはずの「異教」について容認する社会的コンセンサスがこの島ではあったというのは驚きである。

「トールキン先生は、大学の学部時代はいわゆる英語学科に所属していたんですが、卒業論文研究は、これは本人の言葉なんですけれど、アイスランド語だったんです。つまり、英語研究を本来題目とすべきトールキン先生にとって、アイスランド語研究はその一環であるという考え方ですね。しかも、先ほども言いましたとおり、言葉を愛するトールキン先生にとっては、アイスランド語という言語の中には、自分たちイングランド人が既に忘れてしまっているような原風景や神話の姿が見えたのかもしれません」

 これは、伊藤さん自身の経歴にも重なることがある。伊藤さんは、広義の「英語の先生」でありながら、アイスランド留学をした上で北欧文献学を専門分野に掲げたり、ルーン文字の石碑を読み解く研究などをしており、それはまさに、トールキンの偉大な背中を追っている、ということでもあるのだった。

「トールキン先生はオックスフォード大学の、最初は古英語研究の教授職になり、その次には英語と英文学の研究教授職という2つもの教授職に就いた、天才中の天才だったわけです。ですから、私ももう研究をしていくなら、これは覚悟を決めて、中世の英語を含めてきちんと追いかけるべきだと、修士課程に進む時に考えました」

 そのような流れで、伊藤さんの本格的な研究歴が始まるのだった。

つづく

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伊藤盡(いとう つくす)

1965年、東京都生まれ。信州大学人文学部英米言語文化コース教授。慶応義塾大学文学部卒業後、明治学院大学大学院博士前期課程、慶応義塾大学大学院文学研究科博士後期課程に進学。1991年から1年間のアイスランド大学留学を経て、複数の大学で講師や准教授を務めた後、2016年から現職。中世英語および北欧言語を専門とするが、特に英雄叙事詩『ベーオウルフ』やバイキングの英国移住時期の言語文化(古英詩、年代記、法律文書、北欧神話の記録など)資料研究を中心とする。著書『『指輪物語』エルフ語を読む』(青春出版社)や共著『アイスランド・グリーンランド・北極を知るための65章』(明石書店)、訳書『貴婦人ゴディヴァ:語り継がれる伝説』(慶應義塾大学出版会)、『指輪物語 フロドの旅―「旅の仲間」のたどった道』などのほか、『図説 ヴァイキング時代百科事典』(柊風舎)、『J.R.R.トールキン―世紀の作家』(評論社)、映画『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビットの冒険』シリーズのエルフ語の翻訳監修も務めた。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、肺炎を起こす謎の感染症に立ち向かうフィールド疫学者の活躍を描いた『エピデミック』(BOOK☆WALKER、集英社文庫)、クライミングと地学でそれぞれの五輪を目指す高校生の青春小説『空よりも遠く、のびやかに』(集英社文庫)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「色覚の進化」から派生した『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)など。新型コロナ感染症の流行初期から「第一波」を乗り切るまでの体験をまとめた『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(中央公論新社)で2021年科学ジャーナリスト賞を受賞。近著は、17世紀に日本に来ていた鳥ドードーの足跡を追いかけた探究の物語『ドードーをめぐる堂々めぐり――正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。