第1回 バイキングと北欧神話とトールキンの「異世界」へようこそ

 まず簡単におさらいしておくと、作者J・R・R・トールキン(1892~1973年)は、日本では『ホビットの冒険』『指輪物語』を書いた偉大な小説家だと思われているかもしれないが(それは事実だが)、と同時に名誉あるオックスフォード大学の教授として大きな業績をあげた偉大な文献学者でもある。『ナルニア国物語』で知られる英文学者C・S・ルイスや詩人チャールズ・ウィリアムズらとともに文芸討論グループ「インクリングズ(Inklings)」を結成していたことも知られている。

 そして、『シルマリルの物語』は、『ホビットの冒険』『指輪物語』の舞台である「中つ国」の背景にある神話的歴史が描かれている。トールキンも歩兵隊として従軍し負傷した第一次世界大戦中に着手され、『ホビットの冒険』『指輪物語』の背景となりつつ、晩年に至るまで何度も書き直された。そして、トールキンの没後、息子のクリストファー・トールキンがまとめたものが出版された。

『新版 シルマリルの物語』J・R・R・トールキン作、田中明子訳、評論社(出典:評論社HP)
『新版 シルマリルの物語』J・R・R・トールキン作、田中明子訳、評論社(出典:評論社HP)
[画像のクリックで拡大表示]

 邦訳『新版 シルマリルの物語』(田中明子訳 評論社)を一読すると、『指輪物語』の重厚な世界観の背後に、さらにかくも大きな語られていない神話があったのかと圧倒される。『赤毛のアン』を研究するつもりだった伊藤さんは、足を踏み入れた大学の研究室でこの本に惹きつけられた。その研究室にはすでに『赤毛のアン』を研究している先輩がいたこともあって、それでは別の道をとトールキンの研究へ進もうと決めたのだった。

 それは実際に伊藤さんにとって必然的と思える選択でもあった。

「先ほどの『赤毛のアン』の話で紹介した"トランサブスタンシエイショナリスト"は、意味ではなくて音で、あるいはその長さで、呪文のように響くわけですよ。私がそれに心が惹かれたということと、トールキン先生が『シルマリルの物語』を書いたきっかけは近い所にあると思うんです。トールキン先生は、物語を書こうとしたんではなくて、言葉を創造しようとしていて、その言葉は響きというものが先だったんですね。耳に心地よい音の言葉を創造したかった。私は最初それを知らずに、トールキン先生の創造した言語と、編み出した神話を研究し始め、研究のとば口のところで、自分もすでに同じようなことを感じていたのではないかと気づきました。ならば、そこを深めていこうと思いました」

 伊藤さんは、トールキンが創造した言語と、編み出した神話を通じて、研究の大海へと漕ぎ出したのだった。

つづく

おすすめ関連書籍

バイキング

世界をかき乱した海の覇者

伝説に彩られた北欧の雄、バイキング。その実像に迫る! 〔全国学校図書館協議会選定図書〕

定価:1,540円(税込)

おすすめ関連書籍

世界の海賊 海を愛した無法者たちの夢

歴史の始まりから、海は海賊とともにあった。洋の東西を問わず、陸からは見えにくい海に生きた人間たちの素顔をさらし、史実をあぶり出す。豊富なビジュアルとともに、歴史のロマンを感じる1冊。

定価:1,540円(税込)

伊藤盡(いとう つくす)

1965年、東京都生まれ。信州大学人文学部英米言語文化コース教授。慶応義塾大学文学部卒業後、明治学院大学大学院博士前期課程、慶応義塾大学大学院文学研究科博士後期課程に進学。1991年から1年間のアイスランド大学留学を経て、複数の大学で講師や准教授を務めた後、2016年から現職。中世英語および北欧言語を専門とするが、特に英雄叙事詩『ベーオウルフ』やバイキングの英国移住時期の言語文化(古英詩、年代記、法律文書、北欧神話の記録など)資料研究を中心とする。著書『『指輪物語』エルフ語を読む』(青春出版社)や共著『アイスランド・グリーンランド・北極を知るための65章』(明石書店)、訳書『貴婦人ゴディヴァ:語り継がれる伝説』(慶應義塾大学出版会)、『指輪物語 フロドの旅―「旅の仲間」のたどった道』などのほか、『図説 ヴァイキング時代百科事典』(柊風舎)、『J.R.R.トールキン―世紀の作家』(評論社)、映画『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビットの冒険』シリーズのエルフ語の翻訳監修も務めた。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、肺炎を起こす謎の感染症に立ち向かうフィールド疫学者の活躍を描いた『エピデミック』(BOOK☆WALKER、集英社文庫)、クライミングと地学でそれぞれの五輪を目指す高校生の青春小説『空よりも遠く、のびやかに』(集英社文庫)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「色覚の進化」から派生した『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』(筑摩書房)など。新型コロナ感染症の流行初期から「第一波」を乗り切るまでの体験をまとめた『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』(中央公論新社)で2021年科学ジャーナリスト賞を受賞。近著は、17世紀に日本に来ていた鳥ドードーの足跡を追いかけた探究の物語『ドードーをめぐる堂々めぐり――正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。