第5回 世界水準の栄養疫学者ができるまで

 犯罪疫学とは書いて字のごとく、病気を予防するのではなく、犯罪の発生を抑えることを目的とした疫学分野だ。犯罪が起きる社会的な因子を発見し、可能な対策を見出す。たとえば「銃と酒が犯罪の発生を引き上げる因子になっている」「銃と酒を法的に制御すると犯罪が減る」といったエビデンスを客観的に出し政策提言をするといったところだろう。

 今村さんが学生時代に調査を経験したバングラデシュやグアテマラは、ごく最近、不安定な時期をすごしたばかりの国々だ。健康問題の前に、社会が安定しなければならないことを実感したという。このときの体験は、今村さんが「ボストンの叡智」を吸収したいと願った原点だ。

「結局、栄養の知見が蓄積しても、世の中の治安がよくなかったら、意味がないじゃないですか。私は以前、世界の187カ国の食の質を見る研究をして、国際保健学の論文誌に出したことがあるんですが、コンゴとか紛争がある地域は、食の質がよくないんですよね(※2)。これもまた当たり前なんですけど、それを実際にエビデンスとして出しました。そういう社会的な因子が強烈にあると、栄養学や栄養疫学がどんなに充実してもあんまり意味がないんです。人は幸せにならない。私たちの研究って、そういう社会的な基盤が安定した上で成り立っている話であることがほとんどなので、もっと視野を広く持っていたいなと考えています」

 大いに納得し、また共感した。

 ぼくたちは、様々な健康情報を追いかけてああだこうだと言っているけれど、それは、基本的な日々の生活がまわっているからだ。これまでの人類史上、おそらくは一番長い寿命を享受しつつ、さらに長く生きたり、健康寿命を延ばそうとしている。もしも、日々の活動をまかなうエネルギーにも事欠くようなら、目の前にある食べ物を食べるしかない。でないと死んでしまう。そして、実際に、平均寿命が50歳以下の国は今もざらにある。食べ物の良し悪しを吟味する前に、別の理由で多くの人が世を去っていく。

 さらに言えば、もっと決定的な形で人の生命を損なうことが日常になっている社会もある。

「戦争が起こったところで、死亡者数をどうカウントするかっていうのも疫学者の活躍の場なんですよ。あるいは埋葬するというアクティビティと感染病の疫学とか。自分の知識を役立てることができるなら、そういう疫学とかもかかわってみたいなというのはありますね」

 その話をする時の今村さんが、まさに遠くを見据える濁りのない目をしていたのが印象的だった。

(※2)Imamura F, Micha R, Khatibzadeh S, et al. Dietary quality among men and women in 187 countries in 1990 and 2010: a systematic assessment. Lancet Glob Heal. 2015;3(3):e132-e142.
https://doi.org/10.1016/S2214-109X(14)70381-X

つづく

今村文昭(いまむら ふみあき)

1979年、東京生まれ。英国ケンブリッジ大学医学部MRC疫学ユニット上級研究員。Ph.D(栄養疫学)。2002年、上智大理工学部を卒業後、米コロンビア大学修士課程(栄養学)、米タフツ大学博士課程(栄養疫学)、米ハーバード大学での博士研究員を経て、2013年より現職。学術誌「Journal of Nutrition」「Journal of Academy of Nutrition and Dietetics」編集委員を務め、「Annals of Internal Medicine(2010~17年)」「British Medical Journal(2015年)」のベストレビューワーに選出された。2016年にケンブリッジ大学学長賞を受賞。共著書に『MPH留学へのパスポート』(はる書房)がある。また、週刊医学界新聞に「栄養疫学者の視点から」を連載した(2017年4月~2018年9月)。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『天空の約束』(集英社文庫)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。