第5回 小泉武夫(醸造学・発酵学・食文化論):発酵は世界を救う(対談編)

食糧問題を微生物で解決する

関野 食糧問題は微生物でどのように解決できますか。

小泉 今大規模に検討されているのが樹木です。アメリカ、カナダの国境地帯に繊維がやわらかくて分解されやすい樹木を植えていて、そこには「伐採してはならない。将来人間が食べる木である」と書いてあります。

 どういうことかというと、木の主な成分であるセルロースを構成する大半はブドウ糖になります。コメやパンのでんぷんは体内で消化酵素によってブドウ糖になります。ブドウ糖は生きる源です。

 そこで今考えられているのが葉っぱです。地球上には年間数億トンの葉っぱが落ちてくるのですが、利用していません。その葉っぱを微生物で分解すればいい。微生物にはセルロースを分解するセルラーゼという酵素があるから、葉っぱは100%ブドウ糖になる。そのブドウ糖を加工する研究をやっています。今遺伝子工学で植物の繊維を分解する菌がかなり見つかってきています。

 それから、スタミナ源のタンパク質はどうするか。やっぱりこれも微生物です。尿素とかアンモニアからアミノ酸を作っています。そのアミノ酸をくっつければタンパク質になります。人造肉ですよ。これはすでに出始めています。

微生物の力でエネルギーを作る

関野 微生物でエネルギーを作ることもできるのでしょうか。

小泉 発酵のエネルギーはとても強くて、日本では江戸時代の初めにすでに驚くべき微生物エネルギーの使い方をしていました。越中五箇山で小便を発酵させて爆薬を作っていたのです。これはいったい何からヒントを得たのでしょうか。私はおそらく堆肥の爆発だろうと思います。堆肥の下の方に硝酸ができて、灰と混ざって偶然爆発したのではないかと思います。これは日本にしかない技術です。

 私は大学院の入試問題で「サツマイモを原料にして飛行機を飛ばせ」という問題を出したことがあります。これも発酵エネルギーなんです。まずサツマイモを麹菌で糖化する。できたブドウ糖をアセトンブタノール菌で発酵するとブタノールができる。さらに2つの工程を経て飛行機の燃料ができます。

 京浜工業地帯では、微生物エネルギーをそのまま使うのではなく、かなり発電に使っています。味の素さんも巧みな方法で微生物をコントロールして、発電に利用しています。廃油や有機性廃棄物をメタン菌で発酵してメタンを作り、そのメタンを燃料にして火力発電ができるのです。

 新しいエネルギーの技術として、発酵によって水素を発生する「水素細菌」が期待されています。また、ボツリオコッカス・ブラウニーという微細藻類は光合成によって炭化水素を生ごみから作ります。微生物が生ごみから石油に近い燃料を作る可能性が出てきました。こういうのがこれから面白いところだと思います。

地球永住計画公式サイト
https://sites.google.com/site/chikyueiju/

小泉武夫(こいずみ たけお)

1943年福島県の酒造家に生まれる。農学博士。東京農業大学名誉教授ほか、全国の大学で客員教授をつとめる。専攻は醸造学・発酵学・食文化論。国や各地の自治体など行政機関での食に関するアドバイザーを多数兼任、また執筆、テレビ出演など多方面で活躍中。ギャラクシー賞ほか受賞多数。食に関する著作は単著142冊、共著25冊を数える(平成29年4月時点)。また『食あれば楽あり』を日本経済新聞に25年間連続連載中。NPO発酵文化推進機構理事長。

関野 吉晴(せきの よしはる)

1949年東京都墨田区生まれ。武蔵野美術大学名誉教授(文化人類学)。一橋大学在学中に同大探検部を創設し、1971年アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。その後25年間に32回、通算10年間以上にわたって、アマゾン川源流や中央アンデス、パタゴニア、アタカマ高地、ギアナ高地など、南米への旅を重ねる。その間、現地での医療の必要性を感じて、横浜市大医学部に入学。医師(外科)となって、武蔵野赤十字病院、多摩川総合病院などに勤務。その間も南米通いを続けた。 1993年からは、アフリカに誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸にまで拡散していった約5万3000キロの行程を、自らの脚力と腕力だけをたよりに遡行する旅「グレートジャーニー」を始める。南米最南端ナバリーノ島をカヤックで出発し、足かけ10年の歳月をかけて、2002年2月10日タンザニア・ラエトリにゴールした。2004年7月からは「新グレートジャーニー 日本列島にやって来た人々」をスタート。シベリアを経由して稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナを経由して朝鮮半島から対馬までの「南方ルート」を終え、インドネシア・スラウェシ島から石垣島まで手作りの丸木舟による4700キロの航海「海のルート」は2011年6月13日にゴールした。1999年、植村直己冒険賞受賞。