Episode3 船酔いノックダウンで、神のふところへ

 ゴッズ・ポケットとは、「神のふところ」という意味。
 その名前の通り、その入り江だけ一変して風と波の影響を受けない、穏やかな場所である。
 荒れ狂う海峡を渡る者たちの避難場所であり、潮と風待ちの場所である。

 ポート・ハーディーからの出航では、海峡を渡るずいぶんと手前の島にあるため、この日の航行距離は短いのだけれど、海峡のど真ん中と同様に海は荒れている。

 天気は微妙だった。
 朝早く出れば、午後からの悪天につかまることなく、ゴッズ・ポケットまで渡れそうだった。
 出航すると、すぐにも帆に大きな風が入った。
 潮はまるで川のように流れている。その流れを横断するように船を走らせた。
 小さな波が立つ細い水路とは違って、幅のある海峡の波は、一つ一つが大きく、ピッチが長い。
 まるで、ひと山、ひと山を乗り越えるような波が連続し、波に乗り上げ、そして波から滑り落ちるような感覚だった。
 しかしながら、この波の山を乗り越えるタイミングが合わないと、乗り上げた波の山からドスンと水面に叩き落とされることもある。
 これほど大きな揺れには、セーラー犬のルカも慣れていないようで、「フ~ン、フ~ン」と鼻を鳴らし、何か物凄いことが起こっているように怯えはじめた。
 ルカの様子を心配したスキッパーボブが、交代時間までルカを抱いてキャビンの中で寝ているようにと、私に指示した。
 ルカは子供同様で、抱かれていれば安心する。
 私はルカを連れてキャビンに入り、寝袋の中に一緒に入った。ルカは、私の腕の中で小さくなって震えている。
 船は、何度も波に叩かれた。
 私は体を横にして寝ていたけれど、この揺れにはさすがに脳みそがチャップンチャップンと揺れるような頭痛に襲われた。
 ルカは船酔いになって吐くようなことはないけれど、この尋常ではない揺れと振動に、この世のものではない恐怖を感じて落ち着きを失い、「はあ、はあ、はあ」と、私の顔の前で荒い息を吐いていた。
 ルカも9歳となるとオジサンであるから、この息が非常に臭い……。
 ほぼ密室のような船のキャビンの中で、臭い息を吐くものだから、私は一気に気分が悪くなってきた。
 船酔いというのは、ニオイも追い討ちをかけるもので、船酔い中のトイレの臭いや、魚の臭い、エンジンオイルの臭いなどで、一発でノックダウンということもある。
「まさき、交代の時間だよ」
 と声が聞こえてきたが、私は倒れたままゴングが鳴った状態で、立ち上がることもできない。
 それでも、映画『ロッキー』の主人公のように立ち上がり、外のデッキに這い上がっていくと、新鮮な空気が私を包んだ。
「あ、空気だ。美味しい空気だ……」
 ルカの口臭を耐え続けた私には、まるで天国の花園に来たような瞬間だった。

 そして船は、この荒海の中の楽園、「神のふところ」へと入っていった。

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フィヨルドの海の恵み

船旅では、海から食料を頂くのも楽しみの一つ。その恵みを、毎回紹介いたします。

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つづく

廣川まさき(ひろかわ まさき)

ノンフィクションライター。1972年富山県生まれ。岐阜女子大学卒。2003年、アラスカ・ユーコン川約1500キロを単独カヌーで下り、その旅を記録した著書『ウーマンアローン』で2004年第2回開高健ノンフィクション賞を受賞。近著は『私の名はナルヴァルック』(集英社)。Webナショジオでは「今日も牧場にすったもんだの風が吹く」(電子書籍化)「アイスブルーの瞳」を連載した。
公式サイトhttp://web-hirokawamasaki.wixsite.com/webmasaki