小声でルカの名前を呼ぶと、後ろの草むらから駆け寄って来た。すぐさま、ルカを抱きかかえる。
「ゆっくり、下がろう」
 熊の闘争スイッチが入って、こちらに向かって走って来ては、私たちなどあっという間に、熊パンチの餌食になる。
 そっと後ずさりすると、こちらを見ていた熊は、ゆっくりと落ち着いた態度で、尻を見せて去って行った。
「はああ……」
 ピンと張った緊張の糸が切れて、どこでもいいから腰を下ろしたくなった。
 そう言えば……、BC州一番の都市バンクーバーでさえも、少し北上すると、手付かずの自然が広がる野生の国、ベア・カントリーなのだった。
 人工的なトレイルということで、気分が浮かれてすっかり忘れていた。
 カナダやアメリカでは、時々熊に襲われた死亡事故のニュースを聞くことがあるが、その多くは、普通の公園の、普通のトレイルだったりする。
 特に最近の熊は、歩きやすい人間の作ったトレイルを好んで歩く傾向にあり、人工のトレイルだからこそ気を抜いてはいけないのだ。
 私は以前、ずいぶんと野生の森と関わった旅をしていたが、ここのところの都会生活で、感覚が鈍くなっていることを、つくづく思い知らされた。

 それから数日、デソレーション・サウンドの迷路を航行し、とある無人島の入り江に錨を下した。
 そこは、BC州沿岸に点在する多くのインディアンの中でも、まったく読めない、発音が分からない「Nakwaxda’xw」という部族のテリトリーとなる。
 小型のゴムボートを下して上陸してみると、沿岸にはしっかりと部族の土地であることを示す看板が立っていた。

[画像をタップでギャラリー表示]

 人が住んでいたらしい家が廃墟となって一軒だけ残されてある。
 ルカと共に波打ち際を散歩していると、皿やコップの破片がいたるところに落ちていた。
 人が住んでいた気配が、なんだか寂しい感じがした。
 更に歩いて行くと、木々の茂みの中に、ぽっかりと穴が開いた場所を見つけた。
 まるで熊の寝床のような茂みの穴の中には、風化してボロボロの木の柱が、いくつか立っていた。
 なんのためのものか、まったく分からない。
 奥を覗き込むと、ボロボロの木の柱とは別に、手作りの小さな木製の看板が立てられていた。
 比較的、新しい感じがした。
 そこに書かれた文字を読んだ瞬間、私の背筋に冷たいものが流れた。
 ルカを抱き上げ、私はぎゅっと抱きしめた。
 そこには、こう書かれてあったのだった。

 スクーナー、9歳。
 ここで、マウンテンライオンに殺される。
 彼女が捧げた命は、私たちの命を救ってくれた。(直訳) 

 あの廃墟となった家の家族なのだろう。小さな娘を失い、ここを去ったのだろうか。
 そう……、ここカナダ西海岸は、熊だけではなく、マウンテンライオン(クーガー)が棲む地でもあったのだった……。
 そのことを、この航海では、肝に命じなければならない。

フィヨルドの海の恵み

船旅では、海から食料を頂くのも楽しみの一つ。その恵みを、毎回紹介いたします。

[画像をタップでギャラリー表示]
[画像をタップでギャラリー表示]
[画像をタップでギャラリー表示]
[画像をタップでギャラリー表示]

つづく

廣川まさき(ひろかわ まさき)

ノンフィクションライター。1972年富山県生まれ。岐阜女子大学卒。2003年、アラスカ・ユーコン川約1500キロを単独カヌーで下り、その旅を記録した著書『ウーマンアローン』で2004年第2回開高健ノンフィクション賞を受賞。近著は『私の名はナルヴァルック』(集英社)。Webナショジオでは「今日も牧場にすったもんだの風が吹く」(電子書籍化)「アイスブルーの瞳」を連載した。
公式サイトhttp://web-hirokawamasaki.wixsite.com/webmasaki

この連載の前回の
記事を見る

この連載の次の
記事を見る