崖を途中まで登ると、その先が、かなりキツイ傾斜になっていることが分かった。
下から見ていた様子とは違って、まったく登れそうにない。
進路を変更しようにも、木々に囲まれた森の深部のような場所に来てしまっているので、途中での進路変更は、更なる遭難に繋がる可能性がある。
まっすぐ、目の前の崖を上がるしかない。
「ああ、ロープがあれば……」
しかし、こういう時に限って、無いものだ。
必要としている時には無くて、必要が無い時には、邪魔なくらいにあったりする。時々、人生とは、そういうものだ。
岩場の上で、再び潮が引くのを待てば良かったか……と、一瞬後悔にも似た思いが脳裏を横切ったが、それでは、一晩、あの岩の上にいることになる。
ここは、登るしか無いのだ。
私はルカを左脇に抱えると、右手で木の枝を掴み、崖の窪みに足をかけた。
アメリカン・コッカー・スパニエルは、中型犬なので結構、体重がある。
もしもチワワだったら、胸ポケットに入れて難なく、両手で崖を登れただろうに……。
そんな、考えても仕方の無いことを考えながら、崖にしがみついた。
幸い、ルカを置いて、手を休ませることができる場所もあった。
そして、ようやく登り切ると、今度はトゲのある野バラの藪地が広がっていた。
私は愕然とした。
次は、皮膚のかぶれどころでなく、服が破れ、棘が刺さり血だらけになるやもしれない。
ここも、ルカを歩かせるわけにはいかなかった。
まるで毛玉のように、もこもこの毛で覆われているルカは、血だらけになることは無いだろうが、たぶん毛玉に櫛を通したように、毛が引っかかって、前に進むことができないだろう。
再び私は、「よっこらしょ」とルカを抱えて、イバラを掻き分けた。
まるで、私の人生そのものだ。
立ちはだかる崖あり、イバラ有り……。
やっとの思いでトゲだらけの藪から抜け出すと、一転して整備された人工のトレイルに出た。
大きな安堵の溜息を一つついていると、ちょうどそこに研究者らしい男性が歩いて来て、彼はニコリと私に微笑んで、「ハーイ」と言う。
その声に、私も「ハーイ」と答えた。
さっきまで、皮膚かぶれ覚悟の藪漕ぎと、血だらけ覚悟のイバラの掻き分けで、心も体もボロボロだったが、まるで何ごとも無かったような声で、無理やり笑顔を作った。
そして、そのまま、何ごとも無かったように船に戻った。
しかし本当は、岩の上での孤立感と、藪の中の遭難への恐怖感、そして、ルカにリスクを負わせてしまったことへの申し訳なさや、この旅のルカの無事を信じている飼い主への罪悪感でいっぱいだった。
浅はかな行動は、自分だけではなく、他人にも大きな迷惑をかけることになる。
私は、反省の反省の、反省の夜を過ごした。
そんな私の横で、ルカが大の字になってイビキをかいている。
その寝顔に、私はようやくホッとしたのだった。