「──基本、鎌倉時代頃までは、葬送を行うのは血縁者だけなんです。穢れの問題があるので。あとお金があって、ある程度使用人が雇えるような人しか埋葬しない。一般の人は、鳥辺野(とりべの)とかに遺体を置いて遺棄葬をする。餓鬼草子(がきぞうし)の絵の世界っていうのは、中世の墓地の状況だろうと言われています。ところが、室町時代以降になると火葬をする宗教者が出てきたり、遺体を埋葬するっていう発想が広がった。と同時に、すごい大ざっぱな話なんですけども、村の仕組みが発達してきて、共同で埋葬しよう、お葬式をしようっていう仕組みが次第にできていく。ある意味、お互いさまにやりましょうというのが、だんだんと構築されていく、と」

「──江戸時代、京都とか大阪の街では葬具をつくる龕師(がんし)という専門業者も出てきて、それを使ってお葬式をするのが当たり前になってきて。共同性と、ある意味、消費文化みたいなものが重なって、江戸時代後期からどんどん肥大化していく。明治になれば、民法上の家制度ができる一方で、近代国家で職業選択の自由もありますから、流動的な都市の中では、『家』自体の連続性は、ある意味危うい。家の崩壊っていうのも当然出てくるわけですね。そして、戦後になれば共同体が、地縁制から、今度は社縁というか、会社の中での丸抱えの福祉として少なくともバブルがはじけるまでは続きます。で、バブルがはじけた時点で、会社も駄目になる、地域も駄目になる。そこでむき出しになって個人が対応するしかないっていう状況が出てきてます」

山田さんが担当した国立歴史民俗博物館の展示「死と向き合う」の一画。右の大きな絵は、私たちが暮らす「人道」や「地獄」など苦しみに満ちた「六道」と、悟りを開いた後の煩悩のない「四聖」からなる十の世界が描かれた「熊野観心十界図(曼荼羅)」だ。江戸時代の初期あたりにできた絵で、「家」の観念が描かれ、家を継がないことに対する罪悪などが登場する。この罪悪がその後、葬儀の発想のベースになっていくという。
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 山田さんがおっしゃるとおり「すごい大ざっぱな話」と理解した方がいいのだろうが、それにしても、おそろしく長いスパンの、おそろしく多様で雑多なトピックが、葬儀というワントピックでつながって見えてくる。

 この時点で、山田さんの議論の着点が、「昔は良かったけど、今は地域が崩壊してしまったので、古き良き時代に戻せばいい」という話ではないことは、覚悟しておいた方がいい。人が死を受け入れ、死者を送るやり方と、共同体とのあり方は強くリンクしていて、その共同体が、村だったり町人社会だったりの地縁、明治民法での不安定な「家制度」、戦後は会社が葬儀の面倒見る時期を経て、今は儀礼的には葬儀社に頼りつつ、責任の所在としては、家族が、個人があくまでも見ていくことになっている。その傾向がどんどん進んでいる。そんなふうにまとめればいいだろうか。

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