第8回 無念の一年延期

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 在留資格については最初から問題になることがわかっていたので、6月の段階で私は、探検の計画書と、準備のために11月まで村に留まる予定である旨を記した文書を添えてグリーンランド警察に提出しておいた。正式にデンマーク移民局に特別なビザを申請しても許可されない可能性が高いため、比較的国情ののんびりとしたグリーンランド警察を相手に非公式的な滞在許可をとったほうが賢明だと判断したからである。

 7月になると計画書を受け取ったカナック警察から電話があり、事務確認のために私は探検に関する細かな質問を受けた。そのときの警官は私の計画にかなり好意的と思える口ぶりで、11月に探検に出発する際は一言声をかけて欲しいこと、また探検中に緊急事態が発生したらカナック警察に電話してもらいたいといったことだけを私に伝え、在留資格についてはまったく言及しなかった。そのため私は、警察は11月まで村に滞在することを暗に認めたのだと理解し、そのまま準備を進めていたのだ。

 退去命令を受けた後もしばらく私は村に滞在し、地元警察やデンマーク移民局に電話して交渉をつづけた。万が一、決定が覆り、出発できないともかぎらない。それだけを望みに私は橇や毛皮服製作のつめの段階にとりかかり、旅の相棒となる犬のウヤミリックの餌の量も増やし、長い冬の旅を乗り越えられるように急ピッチで太らせた。

 昼間の時間はいっそう短くなり、肌を突き刺すような寒い朝を迎えることが多くなった。海岸の砂浜には定着氷が薄く張りはじめ、海には海水が氷結しはじめたときに特有の蓮の葉氷が浮かんでいる。橇も毛皮服も最終的に完成し、犬にもしっかりと肉がついて暖かい冬毛に生えかわった。だが出国命令は覆らず、私は10月中旬の段階で村を離れて、帰国せざるをえなくなった。

 探検は中止になったわけではなく、1年延期して来冬に実行することになったわけだが、しかし準備から本番の探検まで1年間通じて現地に留まるという部分に今回の旅の大きな意味を見出していた私にとって、この延期の決定は無念の極みだった。自分の都合のいいときを選んで1カ月や2カ月という短期間でことを終わらせて帰ってくる昨今のスポーツ的な冒険ではなく、昔の極地探検のような年単位の長大な旅がしたかったのだが、それはできないことになってしまったのだ。

 私は様々な判断の失敗を後悔し、大きく落胆し、帰国の途中には激しい自己嫌悪に陥った。自分自身、この長い旅にかけていた期待が大きすぎたのかもしれない。旅や冒険には日常を離れて非日常に踏み出し、そこで自己を変革し力を得て日常に帰るという物語性がある。家族と1年間離別し、非日常の極致である極夜世界を長期間にわたって彷徨し、過去に例がないような異様な空間状況を経験して東京の片隅にある何の変哲もない生活空間に戻ってくるという構造を今回の旅に持ち込むことで、私は冒険が古来もっていた〈日常から非日常〉という物語性を象徴的に表現できるのではないかという欲望を一人の書き手として持っていた。それだけに、それが実現できないことに私はひどく憮然とした。

 すでに私は東京に戻ってきて、この原稿を書いているが、探検が再開するまでの1年間のことを思うと、あまりにも遠い未来で思わず途方に暮れてしまう。準備だけ抜かりなく終わらせて肝心の本番の探検が実行できなかったことを思うと、今もあのシオラパルクでの日々やカヤックでの苦労は何だったのだろうと気が抜けそうになる。たった2週間前にシオラパルクにいた日々が、今ではもはや信じられない昔のことのような気がする。非日常を浄化する日常という時間の流れは恐ろしいまでに暴力的だ。セイウチに襲われ、村人とともにクジラを解体し、アザラシを追い掛け回した、あの命の手触りのある確かな日々はすでに記憶の片隅に追いやられ、ぼんやりとした霞みのかかった断片的な映像にかわってしまっている。

角幡 唯介(かくはた ゆうすけ)

1976年生まれ。2002年~2003年に、長らく謎の川とされてきたツアンポー川の未踏査部5マイルを単独で探検、2009年~10年にも単独で踏査し、その全容を解明した。2015年に、北極の極夜(1日中夜が続く)の中、GPSを使わず六分儀を使った方法で、北極圏を1200~1300キロを単独で踏破する探検に挑む。著書『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞、『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞、『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞など受賞多数。著書はほかに『探検家、36歳の憂鬱』(文藝春秋)など。