第7回 セイウチと浮き氷

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 イータに到着してから11日が経過した8月7日、ようやくカヤックを漕げそうな程度に氷の間隔が開いたので、われわれはほとんど脱出といった感じで慌ただしくキャンプ地を後にした。その日は8キロ進めただけで、再びすぐに氷に前進を阻まれたが、8月9日に本格的に氷が開き、一気にアノイトーまで進み1カ月前の物資を回収した。

 そしてアノイトーから先は再び浮き氷の海となった。氷は海をおおいつくしており、われわれはその隙間をぬって、迷路のようにジグザグに艇を漕いでいく。氷山を迂回しては、開けた水路を求め、ひたすら海岸線を東に進んだ。風が吹いたり潮流が発生したりしたら、浮き氷に挟まれて船が破壊されるのは明白だった。

 不気味だったのは、海が凍りはじめていることだった。どうやら風がないため海水が撹拌されず、表層が淡水に近い状態になっているらしい。少し寒気が入ってきただけで、表面に1センチ近くの薄氷ができて、パドルでバキバキとわらないと前進できないのだ。薄氷がないところもじわじわ凍結しているらしく、海には極小、極薄の氷の赤ん坊みたいなのがゆらゆら浮かび、パドルを入れるたびにメラメラと音を立てた。

 このまま海が薄氷におおわれ沖に閉じこめられでもしたら、命がいくつあっても足りない。われわれは必死で氷の隙間にカヤックを進めて小屋を目指したが、タイミングの悪いことに濃霧が発生して視界まで奪われた。

 水路を探して周囲を見渡していると、再び突然、何の予兆もなく、目の前で潜水艦でも浮上したみたいな水飛沫が発生し、山のように巨大な牙をはやした土塊の化け物が飛び出してきた。

「うわあああぁぁ」

 私は腰が抜けそうになるほど驚き、情けない叫び声をあげてうろたえた。ただ、セイウチは襲ってくるわけではなく、ドロンとした眠たそうな目でこちらをじっと見つめた。こちらから攻撃しないと殺されると思った私は反射的に思いきり両手を振り上げ顔面にパドルを突きたてた。不意打ちを喰らったセイウチはデコピンをくらった子供みたいな顔をしたかと思うと、その巨体を翻して爆音とともに海中に消えていった。

 アウンナトックの小屋に到着したのは8月11日のことだった。アウンナトックは極夜の旅で必ず立ちよる地なので、とりあえずこの小屋まで荷物をはこべたことで冬の旅は可能になった。できれば、その先のイヌアフィシュアクの小屋まではこびたかったが、さらに10日以上待っても氷は消えなかったので、8月23日にアウンナトックを後にして村に戻ることにした。

 村に戻ったのは8月31日である。これで極夜の探検のための物資の運搬は終了した。これから橇や毛皮の衣類を製作し、長い夜の旅に備えることになるだろう。

角幡 唯介(かくはた ゆうすけ)

1976年生まれ。2002年~2003年に、長らく謎の川とされてきたツアンポー川の未踏査部5マイルを単独で探検、2009年~10年にも単独で踏査し、その全容を解明した。2015年に、北極の極夜(1日中夜が続く)の中、GPSを使わず六分儀を使った方法で、北極圏を1200~1300キロを単独で踏破する探検に挑む。著書『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社)で第35回講談社ノンフィクション賞、『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社)で第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞、『雪男は向こうからやって来た』(集英社)で第31回新田次郎文学賞など受賞多数。著書はほかに『探検家、36歳の憂鬱』(文藝春秋)など。