第7回 セイウチと浮き氷

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 1匹目のセイウチを見たのは4日目、アレクサンダー岬という難所に向けて漕いでいるときだった。しかも、それは最悪のかたちでの接触となった。何の予兆もなく、不意に突然、何かが海から飛び出してきた音がして、同時に山口の悲痛な叫びが聞こえた。

「やられたっ! セイウチだっ!」

 背後をふりかえると、山口のコックピットのすぐ後ろで、ガサガサとした皮膚感の土色をした巨大な生き物が艇に乗りあがろうとしていた。山口の艇を襲ったセイウチは私の目には吐き気を催したくなるほど薄気味の悪い生き物にしか見えなかった。その愚鈍そうな目、醜い容貌、濡れてヌラヌラと粘っこく光った肉体……。瞬間的に私は必死でパドルを漕いで逃げ出した。近くには岩が積み重なったような小島があり、岸まで行けばセイウチを巻くことができるはず。高鳴る心臓を抑えこむように、必死に島を目指して腕を回した。そして後ろを振り向いたときに、再びゾッとした。セイウチは、その重さ2トンにも達するという巨体を龍のようにうねらせて、波を起こしながら私を追いかけてくるのだ。

 それからの数分間は生きた心地がしなかった。海に引きずりこまれて血の海に沈められたという猟師の話や、牙で穴を開けられ脂を全部吸い取られたアザラシの死骸など、村で聞いた様々なセイウチの恐ろしい逸話を思い出しながら、私は逃げていた。幸運にもセイウチはどこかに消え去った。山口もカヤックに穴は開けられたが、本人にケガはなく無事だった。

 北上してアノイトーが近づくにつれて海に浮かぶ氷は増え、アザラシやセイウチの姿も頻繁に見かけるようになったが、何度も姿を見るうちにセイウチにも慣れていった。セイウチは海底に潜って貝を漁り、時折、呼吸のために上がってきてはブホー、ブホーという豚の鳴き声みたいな音を出して潮を吹いている。セイウチの住む領域に勝手に踏みこんでいるのはこちら側だが、それでも実際に襲われると心理的にはそんな建前は吹き飛んでしまう。正直言ってこの動物には不気味で恐ろしいという感情しか湧かないが、しかし餌場では大人しく食事をつづけている間は襲われる心配はなさそうだった。

 カナダ渡航地点であるアノイトーに着いたのは6月29日、1日休憩して我々は今回の航海におけるクライマックスである海峡往復にいどむつもりだったが、その晩、致命的なミスを犯してしまった。満潮時の潮位を見誤り、デポ用のドッグフードを流してしまったのだ。

 その日はちょうど大潮だった。それまでわれわれは定着氷という冬の間に海岸線にできた氷の高さを目安に潮位を判断していたが、夏のこの時期になると定着氷はかなり解けてしまっているらしく、大潮の満潮ともなるとそれよりだいぶ高い地点まで潮があがってくるらしい。夜中に波の音がやたらと近くに聞こえるので外を見てみると、テントのすぐ側まで海が迫っており、私は愕然とした。すぐに係留場所に向かい、半分海に浸かったカヤックを安全な場所まで引き上げた。だが近くに置いていた20キロのドッグフード1袋が流出しており、15キロ入りのもう1袋も完全に海水に浸って使い物にならなくなっていた。

 ドッグフードがデポできない以上、もはやピム島に渡っても意味がない。われわれはひとまず残りの物資をアノイトーに置き、一度村に戻ることにした。