第10回 自然と科学と、芸術のお話

 なぜか僕の友人には、芸術家が多い。僕自身にとっても、芸術は日々のくらしや思考をつかさどる重要な要素である。「科学と芸術って対極じゃないの? 水と油じゃないの?」みたいな印象を持つ人も多いかもしれないけど、僕のあたまのなかでは、このふたつは矛盾なく共存している。僕にとっての科学と芸術は、表現方法が違うだけで、結局はおなじ疑問から出発し、おなじメッセージを伝えることが目的だと感じているからだ。それは、自然ってなんだろう、人間ってなんだろう、という根本的な問いについて考えることからはじまる。

科学者のプライド

 僕のライフワークは、自然のこと・人間のことについて研究し、その結果を投げかけて、みんなを考えさせ、判断させ、行動させることだ。しかし、あらかじめ決まった答えに向けて市民を誘導しているわけではない。これは自然科学の研究者としてのプライドだ。たとえば、「自然は素晴らしいから当然保護すべきである、保護しない人はうしろめたさを感じろ」みたいなメッセージを伝えようとは思わない。

 そう、僕の役割は市民に判断材料を提供すること。「この自然は、むかしとくらべてこう変わった」「地球温暖化のせいで、将来の自然環境はこう変わる」という情報を伝える。市民は果たして、自然が人間のせいで変化することを甘んじて受け入れるのか。それとも、自然を守るため、なにか努力しようとするだろうか。そのときの判断材料としてもらうため、僕は事実を伝えていく。

 科学者は警告を出し続ける。その警告を受けてどう動くかは、市民自身が決める。科学的に正確な情報に接することで、市民の科学リテラシーは向上するだろう(ちなみに、疑似科学や、感情論で訴える環境保護は、健全な科学リテラシーの向上に逆効果だと考えている)。その結果、たとえば科学者が「温暖化でホッキョクグマが絶滅しますよ」と警告したときに、市民が「温暖化を弱めるために必要な予算は巨額になる。だから、たとえホッキョクグマが絶滅するとしても仕方ない」と結論するとしても、僕はその判断を尊重するだろう。このように科学者は、市民に対して「あらかじめ答えの決まっていない問い」を投げかけ続けているともいえる(たとえば科学者は、技術的には人間のクローンをつくることも可能だ。しかしそれを道徳的に受け入れるかどうかの判断をするのは、民主主義の社会では、最終的には市民の役割だ)。

環境問題について、市民ひとりひとりがどのように判断するか。それによって地球の未来は変わるだろう。人間と自然のバランスを上手に設定するためには、科学リテラシーが重要だ(イラストは京都大学修士1年の松浦真奈さん)。
[画像のクリックで拡大表示]