第35回 感染症研究が切り開いた睡眠科学

 1900年代初頭、ちょうど第一次世界大戦の頃に主にヨーロッパと北米で大流行した脳炎である。原因となる病原体は実はまだ見つかっていないが、おそらくウィルス性だと考えられている。感染するとこんこんと眠り続け、強く刺激を与えるといったん目を覚ますこともあるが、また眠り込んでしまうことからこの名称が付いた。しかし不思議なことに、患者の中には逆にひどい不眠に陥る者もいた。

 このような特徴を見逃さなかったのが、流行の震源地ウィーンの神経病理学者であったコンスタンチン・フォン・エコノモ医師であった。エコノモは死亡した患者の脳を解剖して特徴的な病変がないか詳細に調べ上げた。その結果、嗜眠に陥った患者では視床下部の後部を中心に炎症性病変が広がっていることを見いだしたのだ。逆に、不眠に陥った患者では視床下部の前部に病変が広がっていた。まだ人の睡眠や覚醒の神経メカニズムが全く不明であった1920年代後半のことである。

左図はエコノモ医師が発見した嗜眠と不眠の原因となる嗜眠性脳炎の病変部位(エコノモ医師の1929年の論文から引用)。右図は現在明らかになっている睡眠覚醒システムの一部。嗜眠性脳炎の病変部位に関連した神経路から主要なものだけを抜粋した。<br>赤い丸で示した結節乳頭核や脳幹部の多数の覚醒系神経核から出たシグナルは嗜眠患者でみられた病変部位を通過して大脳に向かうことが後年明らかになった(患者では遮断されていた)。また、結節乳頭核の働きを抑え込んで眠気をもたらす「腹側外側視索前野」とその神経投射(青)は不眠の病変部位に含まれていた。
左図はエコノモ医師が発見した嗜眠と不眠の原因となる嗜眠性脳炎の病変部位(エコノモ医師の1929年の論文から引用)。右図は現在明らかになっている睡眠覚醒システムの一部。嗜眠性脳炎の病変部位に関連した神経路から主要なものだけを抜粋した。
赤い丸で示した結節乳頭核や脳幹部の多数の覚醒系神経核から出たシグナルは嗜眠患者でみられた病変部位を通過して大脳に向かうことが後年明らかになった(患者では遮断されていた)。また、結節乳頭核の働きを抑え込んで眠気をもたらす「腹側外側視索前野」とその神経投射(青)は不眠の病変部位に含まれていた。
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 エコノモはこれらの知見から、視床下部前部に睡眠中枢が存在しその部位の病変により不眠が生じる、視床下部後部から中脳にかけて覚醒中枢が存在しその部位の病変により嗜眠が生じると考えた。現在ではこの推測が正しいことが証明されている。実に慧眼である。

 脳科学好きの方にもう少しだけ詳しく説明しよう。図を見て欲しい。エコノモの発見から30年後の1950年頃に、現在では「上行性網様体賦活系」として知られる覚醒システムがまさにエコノモが指摘した嗜眠病変を通過して大脳に向かっていることが明らかになった。また、1970年代になってようやく睡眠と覚醒に関わるさまざまな神経伝達物質とその神経回路が徐々に明らかになってきた。その結果、主要な覚醒系神経核である結節乳頭核の働きを抑え込んで眠気をもたらす睡眠中枢(腹側外側視索前野)が不眠病変に存在していたのである。

 睡眠覚醒調節に関する詳細な神経メカニズムが解明されたのは2000年代に入ってからである。それに先立つこと70年以上も前にエコノモが行った嗜眠性脳炎の研究はその後の睡眠科学を牽引する金字塔的な業績であった。感染性睡眠病の研究が睡眠科学を切り開いた好例として知られている。

つづく

三島和夫

(イラスト:三島由美子)

三島和夫(みしま かずお)

1963年、秋田県生まれ。秋田大学大学院医学系研究科精神科学講座 教授。医学博士。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大助教授、米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授、国立精神・神経医療研究センター睡眠・覚醒障害研究部部長を経て、2018年より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事など各種学会の理事や評議員のほか、睡眠障害に関する厚生労働省研究班の主任研究員などを務めている。これまでに睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者も歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、集英社文庫)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。近著は『朝型勤務がダメな理由』。