第57回 眠気の正体

 その後、お弟子さん達によってプロスタグランジンD2は前脳基底部(脳の底の部分)にあるクモ膜という脳を包む膜に作用してアデノシンという物質を増加させることが明らかになった。さらにアデノシンは覚醒中に徐々に前脳基底部付近に蓄積し、徹夜をするとさらに増え、眠ると減ることも分かった。

 アデノシンを外部から前脳基底部に微量注入してやると、プロスタグランジンD2と同様に睡眠が誘発される。これらの結果から、どうやらプロスタグランジンD2ではなくアデノシンこそが真の睡眠物質らしいということになった。

 アデノシンは私たちの体のエネルギー源であるアデノシン三リン酸(ATP)という物質の代謝産物である。体の燃料の燃えがらが溜まると睡眠が引き起こされるというのは、睡眠の主要な目的が疲労回復であることを考えると実に合理的である。薪が炭に変われば宴も終了というわけなのだ。

 さて、アデノシンはどのようにして睡眠を引き起こすのだろうか。その後の研究により、アデノシンは脳を最も強力に覚醒させる神経伝達物質の一つであるヒスタミンの放出を抑えることが分かった。アレルギー鼻炎などの治療薬である抗ヒスタミン薬を服用すると眠くなるのは脳内のヒスタミンの作用が抑えられるからである。

脳を最も強力に覚醒させる神経伝達物質の一つであるヒスタミンは「結節乳頭核」から大脳に投射されている。「腹側外側視索前野」はその結節乳頭核の活動を抑え込むことで眠気(睡眠)を誘発する。アデノシンは自身が産生されたクモ膜下腔のすぐ近くにある腹側外側視索前野を活性化し、結果的に眠気をもたらす。なお、腹側外側視索前野は体内時計(視交叉上核)の影響も受けている。(画像提供:三島和夫)
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 この一連の研究から意外な副産物も出た。眠気覚ましにコーヒーを飲む人も多いと思う。ごく最近までカフェインが眠気を払うメカニズムは分かっていなかったのだが、研究の過程でカフェインはアデノシンが覚醒物質であるヒスタミンの作用を抑える最初のステップをブロックしている(腹側外側視索前野におけるアデノシン受容体の拮抗薬である:図参照)ことが明らかになったのだ。

 現在ではアデノシンが私たちの脳内で睡眠物質として働いていることはほぼ間違いないと考えられている。いわば砂時計の砂である。ただし、砂がアデノシンだけかというと決してそうではない。プロスタグランジンD2やアデノシン受容体を遺伝子操作で欠失させた動物(ノックアウト)でも睡眠はある程度保たれるからである。

 おそらく睡眠という重要な生理機能が、たった一つの物質や神経でダメージを受けないように二重、三重、いやもっと多数のバックアップ機構で維持されているのだろうと考えられている。砂時計の砂は色とりどり、かなり多数の生体物質が混じり込んでいるのだろう。

 そのうちに砂時計の砂を補充したり、中央のくびれ部分の大きさを調節することが出来るようになれば、まさに理想の睡眠薬、過眠症治療薬になるだろう。その意味ではカフェインだって立派な薬品と言える。

つづく

三島和夫

(イラスト:三島由美子)

三島和夫(みしま かずお)

1963年、秋田県生まれ。秋田大学大学院医学系研究科精神科学講座 教授。医学博士。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大助教授、米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授、国立精神・神経医療研究センター睡眠・覚醒障害研究部部長を経て、2018年より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事など各種学会の理事や評議員のほか、睡眠障害に関する厚生労働省研究班の主任研究員などを務めている。これまでに睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者も歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、集英社文庫)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。近著は『朝型勤務がダメな理由』。