自殺の背景にうつ病やアルコール依存などメンタルヘルスの問題があることは広く知られている。自殺者の90%は何らかの精神疾患に罹患しているとされる。しかし、逆は真ではない。希死念慮を抱く患者は多いが、実際に自殺行動を起こす人は一部である。行動化には抑うつや悲観的な感情に加えて、セカンドヒットが必要だと考えられている。Mann JJは神経科学的知見から、最後の一押しをしてしまうのが絶望感と衝動性であると考えた。

 実際、数多くの疫学調査でも自殺リスクを高める要因として絶望感、厭世観は常にピックアップされる。そして絶望感、厭世観をもたらす神経基盤として脳内ノルアドレナリン神経機能の低下が関わっている。ノルアドレナリンは気分調節に深く関わり、機能が低下することで生きる意欲、生への関心が弱まってしまうと考えられている。

 このような状態に加えて、脳内セロトニン神経機能の低下によって生じた衝動性、激情、攻撃性が重畳することで自殺行動に至ってしまうと考えられている。死ぬにも力がいる、と言い残したのは曹操だったろうか。自らに向けた強い攻撃性と衝動性が自殺行動という高いハードルを乗り越えさせてしまうのだ。

 不眠や悪夢もまた脳内セロトニン神経機能の低下で誘発されやすい。自殺行動につながる衝動性の高まりを表すサインとして、かなり早期から出現する症状であると考えられている。先に紹介した教科書にもあったように、熟練した精神科医は自殺のハイリスク者を見分ける指標として苦悩に満ちた不眠や破滅的な夢に着目していたのだ。

 不眠や悪夢は自殺を引き起こす直接的な原因というよりも、自殺の衝動性の高まりと並行して、時には先行して生じる兆候と考えるのが妥当だろう。しかし、眠れぬままに一晩中悩み事を反芻し、思い詰め、家人がまだ寝静まっている早朝に自殺を企てる人も少なくない。その意味では睡眠問題は単なる兆候ではなく、自殺のトリガーともなり得る。うつ病をはじめメンタルヘルスの問題で苦しんでいる人こそ、しっかりと眠らせてあげなくてはならない。

つづく

三島和夫

(イラスト:三島由美子)

三島和夫(みしま かずお)

1963年、秋田県生まれ。秋田大学大学院医学系研究科精神科学講座 教授。医学博士。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大助教授、米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授、国立精神・神経医療研究センター睡眠・覚醒障害研究部部長を経て、2018年より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事など各種学会の理事や評議員のほか、睡眠障害に関する厚生労働省研究班の主任研究員などを務めている。これまでに睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者も歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、集英社文庫)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。近著は『朝型勤務がダメな理由』。

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