『不思議の国のアリス』や『ドラえもん』にも登場する絶滅鳥のドードーが、実は江戸時代に日本に来ていた! ふと目にした論文に衝撃を受けた文筆家の川端裕人氏は、ドードーの行方を探究するうち、日本はもとより欧州各国、ついにはモーリシャス島へ行ってしまう。伝説の絶滅鳥の“驚異”に満ちた新刊『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)から、アリスの「聖地」でもある英国オックスフォードの博物館を訪れたエピソードを紹介する。(全3回)

 これまで何度も言及してきた、「ドードーをハト類であると確定した」人物、鳥類学者・地質学者のストリックランドは、この標本を研究することで、1848年の『ドードーとその近縁』(蜂須賀正氏の『ドードーと近縁の鳥』とタイトルが似ているが、こちらの方が「元祖」)を著し、ドードーの分類についての論争に終止符を打った。

ヒュー・ストリックランド。(画像提供:川端裕人)
ヒュー・ストリックランド。(画像提供:川端裕人)
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 ストリックランドは、その論考の冒頭の概説で、「我々の曽祖父とほぼ同時代に生きていたこれらの鳥は、多くの人々にとって、古代の神話のグリフィン(「アリス」に登場する「グリフォン」のモデル)やフェニックスと結び付けられるものになっていた」とし、「散在する証拠を集め、現存するこれらの失われた種のわずかな解剖学的断片を記述し、描写する」ことで、今後、「科学的旅行家」がさらなる証拠を集めてくれることを期待している。

 彼自身、モーリシャス島には赴くことはなかったものの「科学的旅行家」だった。1845年に新婚旅行で大陸各地をめぐり、デン・ハーグやベルリンにて、ルーラント・サフェリーが描いたドードーの絵を観察した。さらに、コペンハーゲンの王立自然史博物館のキュレーターだったヨハンネス・ラインハルトを訪ね「コペンハーゲン・スカル」を間近に見ている。それらによって「ハト説」の確信を強めたことがこの研究の直接的なきっかけだった。

 帰国後、比較解剖学者アレクサンダー・ゴードン・メルヴィル(Alexander Gordon Melville 1819~1901年)とともに、オックスフォード標本、そして、大英博物館に当時残っていた「ロンドンの脚」(Londonfoot. 現在は行方不明)を使って研究を行った。

 メルヴィルはこれらの標本の詳細な骨学的な記述を担当し、ストリックランドはメルヴィルの研究を織り込んだ上で、ドードーにまつわる「歴史的な証拠」「絵画に残された証拠」「解剖学的な証拠」といった多方面からの検討を行っている。

ヒュー・ストリックランドの『ドードーとその近縁』(1848年)に描かれたドードーの頭部(左)とその近縁のハト類(右)。(画像提供:川端裕人)
ヒュー・ストリックランドの『ドードーとその近縁』(1848年)に描かれたドードーの頭部(左)とその近縁のハト類(右)。(画像提供:川端裕人)
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 ドードーの分類について、それまでに唱えられてきた説はいくつかある。古くは、カモ、ガンなどの水禽類であるという考えがあり、ダチョウ、エミュ、ヒクイドリのような体の大きな飛べない鳥の仲間とする説もあった。しかし、ストリックランドの執筆当時は、直近である1846年、リチャード・オーウェンが主張した「猛禽類」説を打ち破る必要があった。オーウェンの説は、クチバシの湾曲や脚の構造からハゲタカに近い「猛禽類の極端に変形した形」であるというものだが、ストリックランドはそれに対してハトに近い27の特徴を指摘して、論破を試みている。その後、ストリックランドは1853年に鉄道事故で悲劇の死を遂げたものの、やがてオーウェンは彼の説を受け入れ、「ドードーはハト類」であることが科学界のコンセンサスとなった。

 また、ストリックランドは、動物種の「絶滅」という概念の確立に寄与したことも付け加えておきたい。論文中では、ドードーとその近縁種ソリテアは「人間の力によって生物種が絶滅したことをはじめて明確に証明した例」だとしている。彼はドードー類の分類学的な地位を確定すると同時に、その絶滅種としての位置づけも揺るぎないものにした。

 その際、ストリックランドは「博物学者の義務は、これらの絶滅した、あるいは絶滅しつつある生物に関する知識を科学の「倉庫」に保存すること」としており、生きている個体群を護ったり、その生息環境がある生態系をまるごと保護する現代の考えからは少し隔たったところにいたことも、注記しておく。

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