次なる食の革命「細胞農業」とは
書籍『クリーンミート 培養肉が世界を変える』から紹介 第1回
この技術は非常に新奇に見えるかもしれないが、現在市販されているハードチーズのほぼすべてに含まれているレンネット(牛乳を凝固させる酵素複合体)も、じつは細胞農産品だ。レンネットは従来、子牛の腸から抽出されていたが、いまでは多くの細胞農業企業とほぼ同じ方法で、人工的につくられている。また糖尿病の患者の多くはヒトインスリンを定期的に注射しているが、このヒトインスリンの生産方法も細胞農業とまったく同じだ。
医療分野の研究室では何年も前から、実験や移植を目的に、同様の方法で本物のヒト組織の培養が行われている。たとえば患者の皮膚細胞を採取し、培養することで、その患者の持って生まれた皮膚と同一の新しい皮膚がつくられている。生体外で育ったこと以外なんのちがいもないため、体にも見分けがつかない、本物の皮膚だ。従来医療分野で広く使われていたこの技術を畜産物の生産に応用するのが、いわゆる「第2の家畜化」だ(この呼称は細胞農業のスタートアップ「メンフィス・ミート」のCEOウマ・バレティによる)。
何千年も前に起きた第1の家畜化(または栽培化)において、人間は家畜や種子の選択的交配を始め、それによって食料生産の場所、方法、量をコントロールする力を手に入れた。いま、そのコントロールは細胞レベルにまで及んでいる。バレティは言う。「高品質の動物細胞から直接肉を生産するクリーンミートの生産方式でこそ、最高品質の筋細胞だけでできた最高品質の肉ができるんです」。メンフィス・ミートへの投資者のひとり、セス・バノンもバレティの「第2の家畜化」という表現が気に入っている。バレティのような起業家に力を貸すためにベンチャーキャピタル(チャーチルのエッセイに敬意を表し、名称は「フィフティ・イヤーズ」)を創設した。バノンはメンフィス・ミートの業務内容について、こう語っている。「人間は昔から動物を家畜化し、食べたり飲んだりするために細胞を収穫してきました。いま、人間は細胞それ自体の家畜化を始めたってわけだ」
現在の畜産システムは、世界じゅうで、あまりに多くの病気の原因となっている。このシステムを軌道修正しようと動いているのが、本書に登場する研究者や起業家だ。出発点や価値観はさまざまでも、皆、同じ目標に向かって進んでいる。その目標とは、食肉をはじめとするさまざまな畜産品が、細胞農業で生産される世界を実現することだ。細胞農業なら、鶏も七面鳥も豚も魚も牛も、飼育する必要も殺す必要もない。感覚をもつ生きた動物は、食料生産と完全に切り離される。
「ビールの醸造やヨーグルトの発酵を見ると思うんです。酵母や乳酸菌って、タンクに入りっぱなしでおとなしいものだなあって」。私がスタートアップ「モダンメドウ」の本社を訪ねた1年後、アンドラス・フォーガッシュ(モダンメドウの共同創業者)はあるジャーナリストにそんな軽口をたたいた。「ぼくたちの目標は、畜産物の生産にもその方式を応用することです。そうすれば、感覚をもつ生き物を工業化する必要はなくなりますからね」
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