11月2日(土)~2020年2月24日(月)まで、東京・上野の国立科学博物館で特別展「ミイラ 『永遠の命』を求めて」が開催されます。ミイラの不遇の歴史や、展示される世界の珍しいミイラについて、監修者である科博の研究者、坂上和弘氏に語っていただきます。
オリジナルはドレンテ博物館
歴史を振り返ってみると、「ミイラ」は不遇な扱いを受けてきた存在である。
まず、「ミイラ」という言葉自体が幾つかの誤解を経て生みだされている。ミイラの英語である「mummy(マミー)」は、アラビア語で瀝青を意味する「mumiyah(ムンミヤ)」などを語源とするが、これは瀝青(れきせい:天然アスファルトなどの炭化水素化合物)が身近にないヨーロッパ人が「古代エジプト人の乾燥した遺体」の表面に固着した黒色物質を瀝青と思い込んだためである。
また、戦国時代の日本では、この乾燥した遺体を「木乃伊」と書いて「モミー」と読んでいたが、同時期に輸入されていた「没薬(もつやく:植物の樹脂)」、ラテン語で「myrrh(ミルラ)」、と混同され、「ミイラ」と呼ばれるようになった。その後、日本では、「人間または動物の死体が永く原型に近い形を保存しているもの」(広辞苑)を「ミイラ」と総称しているのである。
永久死体という言葉で示されるように、ミイラは長い年月の間、ほとんど姿を変えないもの、というイメージがある。ところが、本来ミイラは極めて壊れやすい。ミイラの軟部組織は乾燥し柔軟性を失っているため非常に脆く、単に動かすだけでも皮膚の細片や髪の毛がこぼれ落ちてしまう。
先コロンブス期、1270年~1400年頃、ライス・エンゲルホルン博物館
乾燥した動物の組織を好むカツオブシムシなどはミイラを好んで食べる。温湿度の変化やミイラに発生したカビはミイラの軟部組織を微小に破損してしまう。さらに、後世の人間が何からの理由でミイラを破壊する場合もある。このように、ミイラとなった瞬間から、ミイラは損壊されるリスクにさらされ続けているのである。
ミイラは科学研究の対象としても、不遇な扱いを受けてきた。そもそも、ミイラは一部の人たちにとって魅力的な存在である。その需要を満たすため、ミイラが売買の対象と見なされ、盗掘に近い発掘が頻繁に行われていた。その結果、誰が、何時、どこの遺跡で発見したのか、といった基礎情報や副葬品などが無いミイラが大量に売買されてしまった。
これらのミイラは、破棄されるか、人知れず納屋などに死蔵されるか、もしくは博物館などの研究機関に寄贈されるか、などの経緯をたどる。博物館などに寄贈されたミイラは幸運であると言えるが、しかし、基礎情報が無いために研究対象としては価値が低く、研究対象として取り扱われるよりも、博物館に死蔵するか、一般の方々に興味を持ってもらうための展示として利用されるか、であった。