1月14日(金)~4月3日(日)まで、東京国立博物館(上野)で特別展「ポンペイ」が開催されます(その後、京都、福岡、宮城に巡回)。火山噴火のせいで一昼夜にして灰に埋まり、2000年前の状況がそのまま残されたローマの地方都市ポンペイ。その主な出土品を所蔵するナポリ国立考古学博物館の協力のもと、日本初公開を含む約150点の主な見どころについて、監修者である東京大学教授の芳賀京子氏に語っていただきます。

イセエビとタコの戦い 前2世紀末 ポンペイ、「ファウヌスの家」、トリクリニウム(饗宴の間)出土 モザイク 143 x 143cm <br>ナポリ国立考古学博物館蔵(Photo &copy;Luciano and Marco Pedicini)
イセエビとタコの戦い 前2世紀末 ポンペイ、「ファウヌスの家」、トリクリニウム(饗宴の間)出土 モザイク 143 x 143cm
ナポリ国立考古学博物館蔵(Photo ©Luciano and Marco Pedicini)

 南イタリアのナポリ近郊に位置するポンペイは、紀元79年、ヴェスヴィオ山の噴火によって一昼夜にして街のすべてが埋没した。大々的な発掘が開始されたのは18世紀のことで、たちまち古代ローマ文明をリアルに体感できる都市遺跡としてヨーロッパ中の話題をさらった。

 詩人ゲーテは「こんな興味ふかいものはそう沢山はない」と断言し、「(家の内部に)実にきれいに絵がかいてある」ことに感心している(『イタリア紀行』(中)、相良守峯訳、岩波文庫、37頁)。しかしその一方で、彼は「ポンペイのせせこましく、小さいことは、皆が意外とするところである」とも述べている(同、30頁)。首都ローマの巨大な古代遺跡を見慣れた目には、ポンペイは「ローマ帝国の一地方都市」として映ったようだ。

 しかしゲーテが目にし、理解したのは、当時発掘中だった(そして今もなお発掘中の)この街のほんの一面に過ぎない。すべてが灰に覆われ、そのまま2000年近く空気からも日光からも遮断されてきたこの遺跡からは、噴火の寸前まで続いていたさまざまな人々の生活の痕跡が驚くほどそのまま留められている。目を凝らせば、そこに都市の住人の多様性と個別のストーリーを読み取ることさえできるのだ。

 それに加えて、ポンペイにはローマの地方都市としての顔のほかに、ローマに征服されて植民市となる以前に、独自に繁栄を謳歌していた顔もある。発掘された住宅のなかには、古い豪邸もあれば急ごしらえの慎ましい家もあり、新興の富裕層や、上昇志向の強い中流層の家も見て取れる。

 今回のポンペイ展の特徴を挙げるならば、まず何よりも、18世紀の発掘開始以来、ナポリ国立考古学博物館に蓄積されてきたなかでもとびきりの優品によって、ポンペイの街全体の生き生きとした姿を伝えていることだ。そして一般的な古代ローマ人の生活の紹介にとどまらず、ポンペイという遺跡から読み取れるさまざなな側面を、多面的に展示していることだろう。

 特に、ローマの植民市となる以前のポンペイを代表する数多くの細密モザイク画や、社会階層の上流層だけでなく、新興富裕層や準富裕層、解放奴隷や女性の活躍を証言する家の装飾に目を向けている点は、最新の修復調査や研究動向とも連動したもので、これまであまり取り上げてこられなかったポンペイの魅力に脚光を当てるねらいがある。

ローマ化以前の栄華

 ポンペイがローマ人に征服されたのは紀元前89年、その植民市となったのは紀元前80年のことだ。それ以降は政治制度的にローマの一地方都市となり、文化的流行もローマにならうようになる。だがこうしたローマ化以前には、ポンペイはローマを介さずに直にギリシア世界と接触し、ギリシア文化を吸収することで独自の発展を遂げていた。特に紀元前2世紀の経済発展はめざましく、その富によってフォルム(中央広場)の列柱廊、アポロ神殿、ユピテル神殿、劇場などが建設され、街はその様相を一新した。

 個人住宅も、当時ギリシア世界で流行していたヘレニズム様式で改装された。住宅は公共施設よりも頻繁に建て替えられるため、古い時代の様子を残す例は極めて少ないのだが、約3000平方メートルという市内で最大規模を誇る「ファウヌスの家」は、紀元前2世紀末の改装時の内装を良好に残しており、ポンペイで最も格式ある豪邸だ。

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