現れたのは、他の古代都市では見たことがないような構造だった。

 町の中心となるのは、堅固な造りを持つ営舎だった。営舎は、細く長い住戸が横に連なった長屋のような建物で、この建物がみっしりと立ち並ぶ区画が、南北に四つに分けて建てられていた。長屋のようなそれぞれの住戸は「ギャラリー(Gallery)」と呼ばれ、大きさは、長さが35メートル、幅が7.6メートルだった。パン焼き場はこの営舎の端にあったのである。

 この営舎には誰が住んでいたのだろう? 堅固な形状から考えると、ただの一般の人々の家とは思えない。各住戸には40人から50人ほどまとめて寝ることができる空間があり、全体で最大2000人がここで寝泊まりしていたようだ。

人数を数えるために、ギャラリーに寝てみる発掘隊のメンバー。(写真:Courtesy of Mark Lehner)
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 様々な仮説が立てられたが、現在考えられているのは、彼らはピラミッド建造に携わった建設部隊だったという説である。

 当時の作業集団は、ピラミッド型の極めて見事なヒエラルキーとして組織されていたことが分かっている。

 組織はおそらく3つの階層に分かれた部隊からなっており、最小のグループは20人程度からなる小隊で、中規模の部隊は200名。古代エジプトではこの中隊規模のグループを「サァ」と言った。

ピラミッド型のヒエラルキー組織。
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 この時代、サァは五つ存在していた。それらは、〈偉大な〉部隊、〈アジアの〉部隊、〈緑の〉部隊、〈小さい〉部隊、そして〈完璧な〉部隊と呼ばれていた。

 200人からなるサァは、もともと船員を表す言葉として知られていたが、おそらく、それらが集まって構成されるさらに大きな大隊を一艘の船と見なしていたのだろう。その大隊をアペルと言う。ギザには、〈メンカウラーの友人たち〉や〈メンカウラーの大酒飲み〉というアペルの名前がピラミッド内部や周りの神殿から見つかっている。そして、この大きな部隊を2つ合わせると、営舎に住んでいた2000人と同数になる。

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