Photo Stories撮影ストーリー

1970年代後半、カンボジアの旧ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)によるジェノサイドで、この写真の人々を含む約170万人が殺害された。ジェノサイドという法的概念は、こうした残虐行為を裁くには既存の戦争法では不十分だと考えた法学者によって1940年代に作られた。(PHOTOGRAPH BY MANUEL CENATA, GETTY IMAGES)
生存者たちの悲鳴やすすり泣きが聞こえるなか、2014年にルワンダを訪れた潘基文(バン・キムン)国連事務総長(当時)は、スタジアムを埋め尽くす3万人の聴衆に呼びかけた。「『二度とあってはならない』という言葉を何度も発するようなことがあってはなりません」。その20年前、ルワンダではわずか100日間に80万人以上が殺害される大量虐殺が起き、のちにジェノサイドと認定されている。(参考記事:「ルワンダってどんな国?」)
ルワンダ虐殺は、国際刑事裁判所が歴史上初めてジェノサイドの罪で有罪判決を下した事件だ。ジェノサイドはナチスのホロコーストをきっかけに定義された犯罪だが、ロシアによる2022年のウクライナ侵攻は、ジェノサイドの定義と訴追をめぐる議論を再燃させている。以下では、ジェノサイドという言葉が生まれた経緯と、その認定が難しい理由を解説する。(参考記事:「大虐殺後に女性躍進、ルワンダで何が起きたのか」)
「ジェノサイド」の起源
ジェノサイドはそもそも、1940年代に作られた法的な概念だ。この言葉を作ったのは、国際法という新しい分野の法学者だったポーランド系ユダヤ人のラファエル・レムキンだった。レムキンは「既存の戦争法は、世界を苦しめる新しい形の政治的暴力を扱うには不十分だ」と感じていた、と伝記作者のダグラス・アービン・エリクソンは書いている。
レムキンが最初に新しい戦争法を起草しようとしたのは、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任し、ドイツのユダヤ人を弾圧する法律を制定しはじめてから10カ月後の1933年だった。彼は国際連盟に手紙を書き、「野蛮」で「破壊的」な行為を犯罪とするよう提案した。しかし、この提案は失敗に終わり、ナチス・ドイツがポーランド占領に及ぶと、彼は国外に逃れた。(参考記事:「発足から100年、国際連盟は「最初から失敗の運命」」)
1944年、レムキンは亡命先の米国で『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の統治』という本を出版した。彼はその中で「genocide(ジェノサイド)」という新しい言葉を使った。これは彼が1942年に、古代ギリシャ語の「genos(部族・人種)」とラテン語の「cide(殺す)」を組み合わせて作った言葉だ。ドイツ語の「Völkermord(民族や国民を意図的に殺すこと)」のように、すでにその概念を表す言葉を持っている文化もあったが、レムキンは特定の集団のものではない新しい言葉を作ろうとしたのだ。
当時、連合国側はまだヒトラーの戦争犯罪の大きさを把握していなかった。しかし、1945年にナチス・ドイツの強制収容所の巨大なネットワークが解放されると、ホロコーストの恐ろしさが明るみに出た。ナチスの残虐行為で両親をはじめ47人の家族を失ったレムキンは、ホロコーストの規模と残虐性を暴露したニュルンベルク裁判の起訴状に「ジェノサイド」という言葉を入れるよう働きかけた。彼の働きかけは成功し、人類の未来を守る方法を世界が模索する中、この新しい言葉は本格的に歩み始める。
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