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ベアトゥスによる「ヨハネの黙示録注解」の写本の一つ「シロス写本」の中でもとりわけ色鮮やかな挿絵。黙示録12章の、天で起こった大天使ミカエルと赤い竜の戦いの場面を描いている。(BRITISH LIBRARY, LONDON)
「黙示録」という言葉を聞くと、地球の破滅、世界の終わりを連想する。昔のヨーロッパのキリスト教徒は、西暦1000年が終末の時であると信じていた。そして、その時が近づくにつれて、この世の終わりに起こるであろうことを思い描き、その幻にとらわれた。
特に8世紀、今のスペインがあるイベリア半島のキリスト教徒は、激動の時代にもまれてその思いをますます強めていた。修道士のベアトゥスもまた、こうした変化を目にして、新約聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」の注解書を書いた。黙示録には、世界がどのようにして終わりを迎えるかが克明に記されている。ベアトゥスの注解書はヨーロッパ中に広まり、その後、色彩豊かな挿絵の入った中世を代表する写本が数多く作られた。
ベアトゥスの時代、スペイン北部は激しく変化しようとしていた。ベアトゥスが生まれる20年前の西暦711年、北アフリカからやってきたベルベル人の軍隊がスペイン南部にイスラム教を持ち込み、キリスト教徒だった西ゴート族の指導者たちをあっという間に打倒した。(参考記事:「シェイクスピア作品にも登場、「ムーア人」とは?」)
キリスト教徒に残されたのは、北部山岳地帯のカンタブリア公国と、新たに建国されたアストゥリアス王国など、わずかな領土だけだった。ベアトゥスはおそらく、スペインの中のイスラム教が支配する地域で生まれ育ち、後にキリスト教国である北部に逃れたと考えられる。
その生涯に関する記録からもわかるように、ベアトゥスはかなりの博識家であったようだ。アストゥリアス王アルフォンソ1世の娘の告解師となり、ピコス・デ・エウロパ山脈にあるサント・トリビオ・デ・リエバナ修道院の修道院長を務めた。この修道院で、ベアトゥスは776年から784年の間のいずれかの時期に、「ヨハネの黙示録注解書」を執筆した。(参考記事:「世界遺産:聖書壁画が「絵本」のような修道院」)
時代を反映した書
「ヨハネの黙示録」は、書中で自らをヨハネと名乗る人物によって、ギリシャのパトモス島で書かれた。このヨハネとは、長い間、イエスの愛弟子で「ヨハネによる福音書」を書いた使徒ヨハネであると考えられてきたが、現代の学者たちは、おそらく、別人であるエフェソの説教者ヨハネが、紀元90年頃に書いたのだろうと言う。
ヨハネの黙示録には、天使がヨハネに明かしたという終末の幻、すなわちこの世が滅び、天国と地獄による最後の戦いが起こり、最後の審判を経て、キリストが栄光を受けるまでの預言が記されている。(参考記事:「使徒 不屈の旅路」)
ヨハネの黙示録は、その言葉の曖昧さや象徴の複雑さから、キリスト教界では常に論争の的になってきた。4世紀に西方教会の聖書に正典として含められて以来、多くの教父や神学者たちが、これを基に世界がいつ終わるのかを予知しようとしてきた。その主な根拠になったのは、黙示録20章の次の部分だ。「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする」(日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』 ヨハネの黙示録20章7~8節)。
黙示録が書かれた頃、ローマ帝国に住んでいたキリスト教徒は、皇帝ネロ(在位:西暦54~68年)とドミティアヌス(西暦81~96年)の統治下で激しい迫害を受けていた。そんななか、一時的なこの世の権力の終わりと永遠の神の国の始まりを預言した黙示録は、人々に希望を与えた。さらに、それから700年近く後のスペインで、イスラムの軍隊に囲まれたキリスト教徒たちは、黙示録に記されている1000年の終わりをキリスト生誕後1000年と重ね合わせ、近い将来やって来るであろう終末を、ローマ時代のキリスト教徒のように待ち望んでいた。(参考記事:「古代ローマ、繰り返される終末説」)