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2001年9月25日のテロ事件現場。何千もの命のほか、歴史的にも文化的にも貴重なニューヨークのアフリカ人墓地とスラム街の遺物がこのとき大量に失われた。(PHOTOGRAPH BY ERIC FEFERBERG, AFP/GETTY IMAGES)

9.11の現場を生き延びた、NYの貴重な考古学的遺物 写真15点

2021.09.10

 1992年、都市考古学者のシェリル・ウィルソン氏は、米ニューヨーク州マンハッタンにある世界貿易センターで、「ニューヨーク・アフリカ人墓地プロジェクト」の研究室に使えそうな物件を探していた。管理会社はツインタワー北棟の67階はどうかと提案したが、高いビルは苦手だったので、最終的にその隣にある8階建ての第6ビル(6WTC)の1階と地下室に落ち着いた。

 そして2001年9月11日、ツインタワーに2機の航空機が突入し、ビルは崩落。3000人近い死者を出した。このとき北棟の正面の部分が第6ビルの上に崩れ落ち、ウィルソン氏の研究室に収められていた数十万点もの歴史的遺物もろとも破壊した。それらは、ニューヨークの町の起源や、この町を世界的大都市へと成長させた奴隷や労働者たちの歴史を伝える貴重な資料だった。

2001年11月、崩落した世界貿易センターのがれきを撤去する作業員たち。(PHOTOGRAPH BY SCOTT KEMPER, ALAMY STOCK PHOTO)
2001年11月、崩落した世界貿易センターのがれきを撤去する作業員たち。(PHOTOGRAPH BY SCOTT KEMPER, ALAMY STOCK PHOTO)

南北戦争以前のアフリカ系米国人の埋葬地

 1991年、ニューヨーク市庁舎の近くで連邦政府ビルを建設中に、工事現場からアフリカ系米国人の墓地が発見された。ウィルソン氏によると、多くの米国人は、ニューヨークにアフリカ系米国人が増え出したのは南北戦争の後だと考えているようだが、墓地の跡は、その前からここに大規模なアフリカ系のコミュニティが存在していた証拠だった。それは同時に、産業都市を築き上げるために若く使い捨てが効く労働力である奴隷を必要としたという、この国の残酷な過去をも露わにしている。

 教会の墓地への埋葬が認められていなかった1600年代後半、オランダ人入植者が、マンハッタン島の南端にある2万4000平方メートルの土地を、アフリカ系米国人の墓地として使うことを許可した。

 奴隷は法律で5人以上集まることが禁じられていたため、しばしば夜の闇に紛れて死者を葬らなければならなかった。現在はマンハッタンの金融街となっているこの土地に、150年にわたっておよそ1万5000人の奴隷や元奴隷のアフリカ系米国人が埋葬された。

現在のアフリカ人墓地の記念碑。国立モニュメントに指定されている。(PHOTOGRAPH BY SHERAB, ALAMY STOCK PHOTO)
現在のアフリカ人墓地の記念碑。国立モニュメントに指定されている。(PHOTOGRAPH BY SHERAB, ALAMY STOCK PHOTO)
アフリカ人墓地の発掘現場の写真。1600年代から1795年の間にここに埋葬された人々の推定年齢と性別が書かれている。(PHOTOGRAPH BY PATTI MCCONVILLE, ALAMY STOCK PHOTO)
アフリカ人墓地の発掘現場の写真。1600年代から1795年の間にここに埋葬された人々の推定年齢と性別が書かれている。(PHOTOGRAPH BY PATTI MCCONVILLE, ALAMY STOCK PHOTO)

 墓地で見つかった遺骨は、奴隷たちが強いられた過酷な状況を物語っていた。アフリカ独特の文化だった削られた歯や豪華な装飾品はたった1世代で消滅し、骨には重く危険な肉体労働の痕が残されていた。たとえば、港湾で働いていた奴隷の頭骨には、重い荷物が落ちてできたと思われるひびが入っていた。奴隷たちの平均寿命は、24~26歳だった。

 墓地で発掘されたものは、第6ビルの研究室で10年にわたって分析され、記録された。その後、遺物、土壌サンプル、棺の破片は箱に入れてビルの地下室に収められ、遺骨はさらなる分析のためワシントンD.C.にあるハワード大学へ送られた。

スラム街「ファイブ・ポインツ」跡の発見

 アフリカ人墓地が発見されたのと同じ1991年、そのすぐ近くの連邦裁判所建設予定地でもう一つ考古学的発見があった。駐車場の下から出てきたのは、19世紀のマンハッタンで最も悪名高いスラム街「ファイブ・ポインツ」の遺跡だった。

「ファイブ・ポインツ」と呼ばれた交差点を描いた1827年の絵。(PHOTOGRAPH VIA THE MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK, ART RESOURCE, NY)
「ファイブ・ポインツ」と呼ばれた交差点を描いた1827年の絵。(PHOTOGRAPH VIA THE MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK, ART RESOURCE, NY)
1872年に撮影されたファイブ・ポインツの住宅。(PHOTOGRAPH VIA THE MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK / ART RESOURCE, NY)
1872年に撮影されたファイブ・ポインツの住宅。(PHOTOGRAPH VIA THE MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK / ART RESOURCE, NY)
同じく1872年撮影のファイブ・ポインツ。(PHOTOGRAPH VIA THE MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK / ART RESOURCE, NY)
同じく1872年撮影のファイブ・ポインツ。(PHOTOGRAPH VIA THE MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK / ART RESOURCE, NY)

 ドイツ系とアイルランド系住民がひしめき、当時世界でも有数の人口密集地だったファイブ・ポインツは、1800年代半ばの新聞記事には「毒ヘビの巣」と書かれ、チャールズ・ディケンズなど外から訪れた人々からは、犯罪、暴力、売春の温床と呼ばれた。裕福なニューヨーカーたちは、移民や労働者階級の流入によって起こる都市化のなれの果てがファイブ・ポインツであるとして、そこに住む人々への偏見を正当化した。

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 歴史に残るのはたいてい上流階級の遺物や考え方であり、労働者階級の遺物が後世に伝えられることはほとんどない。しかしファイブ・ポインツに関しては、ユダヤ教指導者の家や売春宿といった建造物の他、85万点もの労働者階級の遺物が見つかっている。ソーダの瓶、茶器、指ぬき、インク入れといった何気ない日用品がこれほど多く発見されたことは、常に解体と再生を繰り返している町にとっては奇跡的ともいえる。

 ファイブ・ポインツの遺物もまた、5年間にわたる分析と記録の後、アフリカ人墓地の発掘物とともに、第6ビルの地下にしまい込まれた。将来は、マンハッタンのウォーターフロントにあるシーポート博物館に展示される予定になっていた。

ファイブ・ポインツで発掘された子ども用の磁器のティーカップ。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された子ども用の磁器のティーカップ。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された粘土製のパイプ。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された粘土製のパイプ。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された粘土製のパイプ。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された粘土製のパイプ。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された子ども用のビー玉。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)
ファイブ・ポインツで発掘された子ども用のビー玉。(PHOTOGRAPH VIA MUSEUM OF THE CITY OF NEW YORK)

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