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兵馬俑坑の1号坑で発見された大量の兵士俑。それぞれの像は実物大だ。(OLEKSIY MAKSYMENKO/ALAMY/CORDON PRESS)

当時の時代背景を考えると、この事業の偉大さをより深く理解できるだろう。秦の統一前から陵墓の建設と兵馬俑の製造を命じたとしても、紀元前210年に始皇帝が死去するまでの期間はわずかしかなかった。当時の中国には様々な文化、民族、宗教が混在していた。中央集権型の独裁体制に不慣れな国土の隅々まで命令を伝え、実行させるのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。
どうやって大量生産したのか?
紀元前3世紀に、数千体もの実物大の兵士を作るために、いったいどのように材料や技術的ノウハウ、労働力を結集させたのだろうか。兵馬俑の製造には、標準化された大量生産システムとともに、高度に効率的な計画管理が必要だ。そこで、この記事の筆者(マルコス・マルティノン=トレス)も参加した考古学者チームが、科学分析を基に、リバースエンジニアリングによって製造工程の再現を試みた。
結果はこうだ。まず、労働者は比較的小さなチームに分けられた。それぞれのチームが並行して各部位の製造を担当するためだ。製造から組み立てまで1カ所で行うのではなく、組み立て専門の複数のチームが一体ずつ俑を組み立て、彩色が終わると、それらを坑へ納めた。
同様に、武器も別の場所で製造されたものを集めて、兵士の手に持たせた。多数の作業場を作り、これらを連係させるには莫大な投資が必要になるが、何か想定外の問題が持ち上がった時に対応しやすい。どこかで作業が遅れても、すぐに別のチームを召集して、問題の対応にあたらせることができる。(参考記事:「兵馬俑の職人、ギリシャ人芸術家が訓練か」)
始皇帝の兵馬俑には一つとして同じものがないとよく言われる。全ての兵士が実在した個人を一人一人かたどったわけではないだろうが、一体ずつ特徴を持たせるために多大な努力が払われたことは間違いない。ある研究者は、いくつかの基本型が用意され、それらを何通りにも組み合わせて個性をもたせたのではないかとみている。
数千もの表情を持った兵馬俑がずらりと並んだ壮大な眺めは、毎年訪れる数百万人の観光客の記憶に焼き付けられる。だが、そもそもこれらの兵馬俑は生者の目を楽しませるために作られたのではない。彼らは、死後の世界の戦士たちだ。
現代に生きる私たちは誰でも、ここを訪れれば圧倒的な兵士の隊列を見渡すことができるが、秦の始皇帝も同じようにその特権を享受できたのだろうか。兵馬俑は整然と並べられた後、巨大な木の梁で覆われ、アシの葉をかぶせられ、大量の土の下に埋められた。
不老不死を求めたと言われる始皇帝の望みも空しく、巨大な墓は作られた直後から危機に直面した。皇帝の死後まもなく秦朝は崩壊し、漢にとってかわられたのだ。変遷期の混乱の影響だろう、兵馬俑坑が水害と火災で損傷を受けていたことを示す証拠がある。