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太平洋戦争で米軍にとって最も過酷な戦闘となった硫黄島の戦いは、1945年2月19日から36日間にわたって続き、この島の拠点を壊滅させた。(W. Eugene Smith, The LIFE Picture Collection/Getty Images)

米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、75年前の傷癒えぬ元兵士は語る

2020.02.19

 東京都心部から約1200キロの硫黄島に米海兵隊が上陸したのは、今から75年前の1945年2月19日だった。当初、米軍は簡単な掃討作戦とみなしていたものの、戦闘は5週間に及ぶ。その激しさは、百戦錬磨の米海兵隊員の心も折るほどだった。

 硫黄島の戦いに参加したビル・モンゴメリー氏は今、95歳。最近では右耳がまったく聞こえず、左耳もあまり聞こえない。しかし、硫黄島と呼ばれる岩だらけの島で、20歳だった自分の鼓膜に響いた戦場の音は、今も忘れない。そして、そこに掲げられた米国旗を見たときの、この上ない喜びも。それは米軍の歴史に永遠に刻まれる出来事だった。

「私たちが上陸して5日目のことです。私が一人きりで離着陸場の端の斜面に寝転がっていると、船の警笛が聞こえました。壕内にいた仲間から歓声が上がりました」

 モンゴメリー氏は、標高169メートルの摺鉢山の頂きに目をやった。そこは面積約24平方キロの硫黄島の、ほぼどこからでも見える場所だった。800メートルほど先の光景に、戦いで疲れた体の中から力が湧き上がった。「見ると、星条旗が翻っていたのです。何ということでしょう」。その声には今も驚きがこもる。(参考記事:「ヒトラー最後の賭け「バルジの戦い」 生存兵が語る地上の激戦」

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硫黄島の戦いが始まった5日後の1945年2月23日、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げる6人の米海兵隊員。このうち3人は、戦いの勝利を見ずに亡くなった。硫黄島で戦った軍人27人に名誉勲章が授けられた。これは米国史上、1つの戦いにおけるものとしては最多である。(Photograph by Joe Rosenthal, AP)

 それはおそらく、太平洋戦争における最も象徴的な瞬間だっただろう。写真家ジョー・ローゼンタールが撮影した、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げる6人の米海兵隊員の写真は、本国にいる多くの米国人を奮い立たせ、今でも世界各地にいる米海兵隊員の士気を高揚させる。

「それはもう、大変な喜びでした」とモンゴメリー氏は語る。「これですべて終わったと思いました。あまりに多くの同胞が亡くなっていました。ようやくやり遂げたのだ、と」

 しかし、喜びもつかの間だった。

 硫黄島ではその後1カ月以上も激しい戦闘が続いた。この火山島の前哨地点で戦った11万人の米陸・海・空軍兵士のうち、2万6000人が死傷した。

 ビル・モンゴメリー氏は、なかでも37日間にわたる死闘を耐え抜いた、ごく少数の海兵隊員の一人である。氏がいた部隊の50人のうち、生き残ったのはたった5、6人だった。(参考記事:「【動画】日本軍と交戦した空母、水深3千mで発見」

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ビル・モンゴメリー氏が米海兵隊の新兵訓練所に入所したのは、18歳のときだった。(Courtesy Bill Montgomery)
95歳になった氏は、同じ部隊のほとんどの兵士が命を落とした戦いで自分が生き残ったのが不思議だという。(Courtesy National Geographic Studios)

「自分がどうして撃たれなかったのか、まったくわかりません。申し訳ない気持ちです。有難いことだとも思っています」

 前かがみになり、テーブルを指先で叩きながら、そう話した。リタイアしてからは、米ジョージア州アトランタに近いこの家で暮らしている。結婚して70年になる妻のリー氏は、夫の震える手に触れようと手を伸ばしかけたが、代わりに優しく微笑んだ。ビル氏も微笑み返した。少し落ち着いたようだ。

次ページ:それは恐ろしい1カ月だった

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