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70歳のローナ・ゲイル・ウッズさんは、5代目のアフリカタウンの住人。高祖父のチャールズ・ルイスは、1860年に最後の奴隷船クロティルダ号に乗せられ米国へ到着した。(PHOTOGRAPH BY ELIAS WILLIAMS, NATIONAL GEOGRAPHIC)
メキシコ湾に面した米国アラバマ州モービル郡のアフリカタウン。歴史あるモービル郡訓練学校の外は寒く、どんよりとしていたが、建物の中は暖かい空気で満ちていた。そこへ集まった人々は、1860年7月、アフリカから米国に到着した最後の奴隷船「クロティルダ号」で連れて来られた乗船者の子孫たちだ。この日200人以上が、初めて開催された子孫の会に参加した。(参考記事:「沈没船が明らかにする奴隷貿易の変遷」)
南北戦争の終結に伴い、北軍によって奴隷から解放された30人以上のアフリカ人が、ここからほど近いモービル郡北部マガジンポイントの森や湿地帯に住み着いた。アフリカの伝統と米国の習俗の両方を取り入れ、人々は家を建て、作物の種をまき、家畜を飼い、狩りや漁、農作業で糧を得た。教会やモービル初の黒人向けの学校も建てられた。それが現在のモービル郡訓練学校である。人々は協力し、強い絆で結ばれ、助け合い、自立した町を作り上げた。それはやがて「アフリカタウン」と呼ばれるようになる。(参考記事:「DNA解析でよみがえる 忘れられた奴隷たち」)
「小さいながらも、自立したコミュニティでした」。町の創始者であるポリー・アレンの子孫ダロン・パターソンさんは話す。パターソンさんは、1960年代にモービル郡訓練学校に通い、その後デトロイトへ移ってスポーツ記者として活躍した。「必要なものはすべてここにありました。学校は、自立した女性、自立した男性になるよう教えてくれました。理想の町でしたよ」
パターソンさんを皮切りに、町を創立した5家族の子孫たちが次々にマイクを取り、同じように自分たちの過去、現在、そして未来への希望について語った。
ローナ・ウッズさんは、ユニオンバプテスト教会の裏手にあるグリーンズアリーで育った。この地域は住宅が密集し、「隣同士窓から手を伸ばしてパンを受け渡しできるほど」家と家の距離が近かったという。
荒れたまま放置された町
そのやり取りが本当に必要なこともあった。夕方になっても隣家の煙突から煙が昇っていないと、夕食に食べるものがないことを意味していた。しばらくすると、その家の玄関前には食べ物の入った袋が置かれていたという。
そんなアフリカタウンの人口は、今大きく減少している。1960年代には約1万2000人だったが、現在では2000人以下まで減っている。人が住んでいる家は町の半分で、残りは空き家となり、その多くが崩れかけている。「私は70歳ですが、いつかこの町に商店やガソリンスタンドが戻ってくると夢見ていますよ」と、ウッズ氏は語る。
町の多くの住人が同じ夢を抱く。だがそんな思いとは裏腹に、モービルの自治体は町を工業化し、多くの産業を呼び込もうと計画しているようだ。アラバマ電力会社と商工会議所が作成した企業誘致の案内書によると、川沿い80キロに26の大手化学薬品工場が立ち並ぶアラバマ州化学工業地帯には、アフリカタウンも含まれている。
1920年代に大手企業がこの一帯に進出し始め、最盛期には製紙会社3社の工場、巨大製材所と材木置き場、そして12基の石油ガスタンクを有する貯蔵施設があった。商業地区を貫くように、4車線のアフリカタウン・コクラン橋も建造された。1991年に完成した橋は、地域社会を分断し、小さな商店を閉鎖に追い込んだ。