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ヒンドゥー教徒の巡礼者が、泥火山の急な山腹を登り、火口にココナツを投げ入れる。神々に感謝し、願い事をするための儀式だ。(VIDEO BY MATTHIEU PALEY AND MUHAMMAD YASIR BALOCH)(PHOTOGRAPH BY MATTHIEU PALEY, NATIONAL GEOGRAPHIC)
パキスタン西部バローチスターン州の吹きさらしの丘は、いくつもの帝国の盛衰を目撃してきた。
東洋と西洋を結ぶ古い交易路に位置し、ヒンドゥー教徒、ゾロアスター教徒、そしてイスラム神秘主義スーフィズムの遺産がたくさんある。アラビア海に沿って何百キロにも広がる別世界のような海岸は、神の住まいと考えられているのだ。
毎年春には、4万人を超える人々がこのモノクロームの土地に詰めかけ、女神サティーを礼拝し、一連の儀式を行って自分たちの罪を洗い清める。イスラム教徒が大多数の国で最大のヒンドゥー教の巡礼、「ヒングラージ・ヤトラ(Hinglaj Yatra)」だ。(参考記事:「インド、光の祭り「ディワリ」のまばゆい写真20点」)
ヒングラージの起源は、悲しい恋の物語だ。伝説によると、女神サティーは父の希望に逆らって破壊の神シヴァと結婚した。言うことを聞かない娘を罰するため、父親は婿を神聖な儀式に招待しなかった。この仕打ちに屈辱を感じたサティーは、儀式のための焚火の中に自ら飛び込んで命を絶った。シヴァはサティーのなきがらを抱いて踊り、その悲嘆が世界を破滅させそうになったため、他の神々が遺骸を切り刻んでシヴァの不気味な舞踏をやめさせた。サティーの体は51個のかけらになって地面に落ち、現在のインド、パキスタン、西ベンガル、ネパール、スリランカ、そしてバングラデシュに散らばった。
これらの場所を示す神殿は、女神を仰ぎ、彼女の祝福を求めるヤトリー(巡礼者)たちの聖地になった。歴史上、ヒングラージへのつらい旅を成し遂げられた人はほとんどいなかった。サティーの頭が落ちたとされる地への道のりは、砂漠を250キロ以上にわたって横断する過酷なものだからだ。しかし近年、新しいインフラのおかげで、これまでにない数の巡礼者が聖地に入れるようになった。何世紀にもわたる儀式も様相を変えつつある。(参考記事:「携帯で変わるパキスタンの伝統社会、写真21点」)
女神をたたえる
伝統的に、巡礼の道は徒歩でたどるものだった。肉体的な苦痛が、魂を清めるための苦行になったからだ。「砂漠の猛烈な暑さの中を歩くとき、巡礼者の罪はすべて燃え尽きます。巡礼者は浄化され、心が清らかな状態で女神の前に立つことができるのです」。ドイツ、ハイデルベルク大学南アジア研究所の助教ユルゲン・シャフレヒナー氏はこう説明する。氏は『ヒングラージ・デービー:パキスタンのヒンドゥー寺院におけるアイデンティティ、変化、そして結束』の著者だ。
多くの人々にとって、まさに危険な旅路だったが、2004年にパキスタンのマクラン海岸高速道路が完成すると、かつて遠く離れていた地域が結ばれ、信者が車で直接、聖地へ行けるようになった。過去15年間で交通量は飛躍的に増え、巡礼者の旅も変化した。(参考記事:「圧倒される美しさ、パキスタンの絶景 写真8点」)
「本来は歩くべきだということには誰もが同意します。しかし、みんな時間がありません」と話すのは、昨年の春に巡礼を記録した写真家、マチュー・パレイ氏だ。「世界はもう現代になってしまっています。人々は巡礼に何カ月も費やせません。でも、1週間なら可能かもしれません。本来の巡礼とは違うとみんな分かっていますが、しないよりは良いのです」(参考記事:「パキスタン 辺境の地で」)
植民地時代でさえ、船やラクダ、ロバで旅した人は、砂漠を歩き通した人に比べて「純粋さ」が足りないとみなされた。「非常に多くの人が旅行者としてただ来るだけになって、神殿の精神的価値が下がったと、巡礼者たちは言っています」とシャフレヒナー氏は説明する。
一方、国道は徒歩のならわしを復活させる後押しにもなった。道に迷ったり水が尽きたりする心配がないなら、肉体的・精神的な困難を受け入れようという人々も増えたからだ。
「火山周辺の地域は信じられないほど荒涼とした風景です。月面にいるようなものです」とパレイ氏。