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写真館で撮影された力士たちと行司。行司の男性は軍配を手にしている。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

140年前のニッポン新婚旅行、貴重な写真23点

2018.06.06
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 数年後、ニューヨーク・タイムズはエレノアの言葉をこう報じている。「子どもが病気だと彼から告げられました。そのことに胸を痛め、私は彼の言葉に従いました」

 エレノアは息子の共同親権と引き換えに、一緒に暮らしているかどうかに関係なく、夫に年間3万8000ドルを支払い続けることに同意した。(2018年現在の金額でいうと、2億600万ドル相当の財産から年間100万ドル払うのにほぼ等しい)。

 それでも、それから20年あまり、フェルプス家は円満そうに一緒に暮らした。権威や高貴さに満ちたパリの高級な家々と、ポーの邸宅を行き来して生活していた。

【ギャラリー】140年前のニッポン新婚旅行 写真23点(写真クリックでギャラリーページへ)
昔ながらの網で漁をする日本の男性。東京、両国のようだ。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

 そして1910年7月、エレノアは支払いをやめた。

 エレノアが限界に達した理由はわからない。ハリスが息子リビングストンをコントロールしようとする姿勢だったかもしれない。息子が米国外務局に入るのをやめさせようと、ハリスはばかばかしいほどに手を尽くした(当時のタフト米大統領に手紙を送ってさえいる)。あるいは単に、何十年もの軽侮が、服従する力をエレノアからなくしていったのかもしれない。

 ハリスは訴えたが、エレノアもすでに離婚を申し立てていた。ついに、エレノア側の言い分が表に出た。夫が彼女を従わせるために息子を誘拐したこと、妻の金銭を管理できるようになると、夫は全て自分の物にしてしまい、妻には週に12ドルしか渡さなかったこと、夫が義母の宝石を盗んだこと、そして身体的・精神的に虐待をしていたこと。

フェルプスの写真アルバムの1つ。古びてもろくなった絹の布がめくれている。(PHOTOGRAPH BY REBECCA HALE)
大仏が中庭を見下ろしている。外国人が日本各地の自由な訪問を許可されるまで、西洋の写真家は数カ所の開港地から出られなかった。そこで日本の商人に写真術を教え、外国人が行けない場所へ送り出して写真を撮らせた。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES (RIGHT))

 非常に激しい争いになる可能性もあったが、離婚は一度も裁判に至らなかった。ハーバード大学を卒業し、外交団と一緒に訓練を受けていた25歳のリビングストンが、再び和解するよう両親を説得した。1912年に新たな契約が結ばれた。ハリスはニューヨークにある一家の財産から高額の支払いを毎年受け取り、残りはリビングストンに渡ることになった。

 わずか1年後、エレノア・フェルプスは脳卒中のためパリで亡くなった。56歳だった。息子は母の側にいて、ポーで母方の祖父母の近くに埋葬されるよう取り計らった。夫のことは、死亡証明書のどこにも記述がなく、リビングストンに全て渡すとした遺言書でも言及されていない。

終わりの始まり

 リビングストンは1915年、赤十字で活動していたフランス人伯爵の娘、エリザベス・ド・ベルトーとローマで結婚した。第1次世界大戦の開戦から1年が経とうとしていたが、米国と欧州を旅した若い夫婦の新婚旅行にはそれほど影響はなかったらしい。リビングストンの両親が以前に出かけた旅より、ずっと長期間にわたった。今の125万ドルに当たる額を遺産から毎年引き出しつつ、リビングストンはイタリア駐在米国大使の個人秘書としても働いた。

 ロシア革命の年である1917年に、サンクトペテルブルクの大使館に配属されたのは不運だった。翌年に外交官が追放されるまで、リビングストンは夫婦でかの地に滞在した。不満を抱いた彼は、今までに就いた唯一の仕事である外交の職を辞した。

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