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写真館で撮影された力士たちと行司。行司の男性は軍配を手にしている。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

140年前のニッポン新婚旅行、貴重な写真23点

2018.06.06
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 ハリスとエレノアが各地を滞在した日々は、どんな風だったのか。2人のことがわかる書簡などはずっと前に失われているため、現在、ほとんどが想像にゆだねられている。

 彼らはまず、ペル夫妻が数十年間住んでいたフランスに船で渡ったとみられる。しかし、そこからはどうしたのだろう。東に足を向け、インドネシアや日本、中国と海路で旅してから、インドを経由して西アジアや東欧を陸路で移動し、母国に帰ったのかもしれない。(参考記事:「昔の日本はこんなだった」

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日光東照宮の御水舎(手水舎)とみられる建物。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

 19世紀後半には、車もキャスター付きのスーツケースもGPSもなく、相当な資金と辛抱強さがなければ実現できない旅だった。当然、エレノアが費用を持った。

 最初の不和の兆候は、1883年初めにテヘラン(今のイラン)で頭をもたげた。数人の軍人がエレノアに注目し過ぎ、ハリスが嫉妬で怒った。しばらくの間2人は別行動を取ったが、友人たちの説得でようやく和解した。その年の11月には、彼らは旅路に戻っていた。この時、タブリーズからロシアを目指し、吹雪の中を夜を徹して馬を走らせていると、山賊に追いかけられた。

 なぜこのような旅に出たのか、誰もが疑問に思う。ハリスが後に主張したように、エレノアの病気療養の旅だったとは考えにくい。こんなマラソンのような旅行は、療養どころか害になる。では単に2人とも旅行好きだったのか? それは十分ありうる。2人とも結婚前にヨーロッパを旅し、住んでいたことがある。しかし、年を経るにつれ、新婚時代の輝きは薄れていくものだ。

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エレノアの左に傾いた字で、「大昔の」武士たちがポーズを取っているシーンが説明されている。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

 1884年までに、夫婦はフランスに住むようになった。テヘランでの出来事を聞いたエレノアの父親は、2人に離婚を要求したが、ハリスは一緒にいてほしいとエレノアを説得した。9月、妊娠したエレノアはハリスのもとを去り、南仏の町ポーの邸宅で両親と一緒に暮らしたが、冬のさなかには、夫婦は再び一緒に旅行していた。

 息子のチャールズ・ハリス・リビングストン・フェルプスは、1885年5月15日にポーで生まれた。両親にとって唯一の子どもだった。だが、大人になるまで彼は、マスコミに注目されながら醜く争う両親の板挟みになる日々を過ごした。

財産をめぐる争いへ

 息子が生まれてからの40年間で、フェルプス家では家族を相手取った訴訟が4回も起こった。

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木々の間に富士山が見える。(PHOTOGRAPH FROM PHELPS COLLECTION, NATIONAL GEOGRAPHIC SOCIETY ARCHIVES)

 1887年、ハリスは当時2歳の息子を誘拐し、エレノアに収入の半分を譲渡するよう要求した。ハリスもエレノアも、この件を表沙汰にすまいとしたが、米国の新聞は事件をしつこく書き立てた。妻の実家から軽蔑されていることを、ハリスはよく知っていた。義母のスーザン・ペルの遺言により、エレノアの最終的な相続分にハリスが手を出すことはできなくなっていたのだ。そこで、ハリスは自ら行動を起こした。1888年の初め、エレノアはハリスの要求をのんだ。

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