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インド、コルカタにある「マーティン・ルーサー・キング通り」。インドが生んだマハトマ・ガンジーが「私たちの非暴力による社会変革運動の手本となった」と、キング牧師は語った。(PHOTOGRAPH BY IAN TEH)

暗殺から50年、世界1000カ所に広がる「キング牧師通り」 写真6点

2018.04.04
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 今から50年前の1968年4月4日、米国公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺された。

 ドイツのマインツ市議会が、市内にある道路にキング牧師の名をつけることを決めたのはそれから3週間後。わずか数日での決定だった。キング牧師の故郷である米国アトランタでは、同じことをしようとして8年もかかっている。暗殺の舞台となったテネシー州メンフィスにもキング牧師の名を冠した道があるが、改名されたのは死後40年以上経ってからのことである。

 ドイツのシュベリーンには、アンネ・フランク通りの突き当りにドクター・マーティン・ルーサー・キング通りがあり、フランスのサン・マルタン・デールではマーティン・ルーサー・キング通りの先にローザ・リー・パークス通りが走っている。ローザ・リー・パークスは、1955年に米アラバマ州で起こった人種差別への抗議運動のきっかけを作った女性である。さらに、ハイチのポルトープランスでは、18世紀の革命家にちなんだトゥサン・ルベルテュール通りを進むと、ある地点で通りの名がマーティン・ルーサー・キング通りに変わっている。(参考記事:「アメリカの記念建造物、建設の歴史」

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ハイチの首都ポルトープランスの「マーティン・ルーサー・キング通り」。この街には、他にも自由のために戦った英雄の名にちなんだ道路が数多く存在する。(PHOTOGRAPH BY PHILOMÈNE JOSEPH)

 暗殺される2年前、キング牧師の米国での支持率は33%にとどまっていた。人種差別の影響や、キング牧師が求めていた急進的な経済公正に対し不快に感じる白人米国人が多かったためだろう。その死から時を経るにつれ、キング師が掲げた課題はかすみつつあるようにみえる一方で、彼の支持率は上昇し、暗殺から50年が経った現在、約90%の米国人が肯定的な印象を持っている。

 米国には、キング牧師の名がつけられた道路が少なくとも955カ所存在する。その多くは低所得者の住む地域に集中しているが、さびれた町の殺風景な大通りというイメージはあまり当てはまらない。キング通りを数多く調査したテネシー大学の地理学者デレック・アルダーマン氏によると、米国の主な目抜き通りと比較しても遜色ない通りだという。

 ハーバード大学のデザイン大学院で教えるダニエル・ドカ氏は言う。「キング牧師ほどの人物の名を道路につけるとなると、その名に恥じないように道路を維持管理していかなければならないという意志が必要です。もしキング牧師本人が生きていて、そこを訪れるようなことがあったら、誇りに思ってもらいたいでしょう」。ドカ氏は、2015年に大学で『The MLK Way: Building on Black America’s Main Street(マーティン・ルーサー・キングの道:米国黒人のメインストリートを築く)』という講座を教え、キング牧師の価値観を反映した道路を視覚化するという課題を学生たちに与えた。異なる人種が共に暮らし、発展し、平和があり、経済的に安定し、近隣住民のニーズを満たす店が建ち並ぶ場所だ。

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米国ニューヨーク市のドクター・マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・ブルバード。(PHOTOGRAPH BY ELIAS WILLIAMS)

 世界のキング牧師通りの数は、1000を超える。キング牧師の名前の由来になった、宗教改革者マルチン・ルターの故郷ドイツにも、マーティン・ルーサー・キング通りが数多く存在する。

 キング牧師とその父親は、元々マイケルという名前だった。しかし、やはりバプテスト派の牧師だった父親が1934年にベルリンを旅した時、プロテスタントの創始者であるマルチン・ルターに感銘して、自分の名前と、当時5歳だった長男のキング牧師を改名したのだった。

 公民権運動の勝利は、キング牧師が夢見ていた政府による人種分離政策の終焉に大きく貢献した。彼の死によって、米国議会での公正住宅法の可決が早まった。また、死後数十年のうちに、米国黒人の貧困率は低下し、高校卒業率や住宅所有率は上昇した。しかし、世界中が貧困の根絶に向けて動いているわけではない。

 キング牧師が暗殺されたメンフィスでは、貧困率が全米平均を上回っている。1971年に町の道路をキング通りに改名しようという動きがあったが、実現しなかった。2012年になって、市議会議員のベルリン・ボイド氏が再び改名を提案し、ようやく承認された。

「ここは、キング牧師の血が路上から叫び声をあげている町」と、ボイド氏は語った。全長3.2キロのドクター・M・L・キング・ジュニア・アベニューは、キング牧師が最後に行進した通りの一つだ。通りを行けば、バスケットボールのアリーナと公立短期大学の建物が背を向けて建っている以外、特に目立った風景は見られない。1968年3月28日、キング牧師は数千人のデモ参加者を率いて当時リンデン・アベニューと呼ばれていたこの道路を市役所まで行進し、労働組合反対派で人種分離政策を支持するヘンリー・ローブ市長への抗議を示した。当時、ローブ市長は、ストライキを起こしていた市の黒人清掃員との交渉のテーブルに着くことを拒んでいた。このデモ行進は暴動に発展してしまったが、平和的な抗議行動が可能であることを示すため、キング牧師は4月3日に再び町へ戻ってきた。(参考記事:「苦しみの歴史に衝撃、アフリカ系米国人博物館」

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ドイツ、ボンのマーティン・ルーサー・キング・シュトラーセ(PHOTOGRAPH BY MARTIN ROEMERS)

 その夜、キング牧師は「私は山頂に達した」と題した演説を行い、翌日モーテルのバルコニーで暗殺された。メンフィスの町は最近になってようやく、キング牧師の払った犠牲に応える決定を下した。2017年夏、当時のストライキ参加者のうち生存する29人の清掃員に対し、補償金を支払うことを市議会が承認したのだ。それぞれの清掃員に、キング牧師の死以降1年当たり税引き後約1000ドルが支払われる。しかし、なかには今も現役で清掃員として働く人もおり、補償金で仕事を引退できるかというと、それほどの金額ではない。

 キング牧師は、黒人の子どもと白人の子どもが兄弟のように手を取り合って遊ぶ世界について語っていた印象が強いが、実はそれよりもはるかに野心的な「政治と経済権力の過激な再分配」も訴えていたことを、多くの人々は忘れがちだ。

 死の1年前、キング牧師は次のように語っていた。「世界中のあらゆる場所で、人々は搾取と抑圧の古い体制に抵抗して立ち上がっている。そして、打ちのめされた世界の傷痕から、公正と平等という新たな体制が生まれようとしている」(参考記事:「ナショジオは人種差別的だった、米版編集長が声明」

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ナショナル ジオグラフィック2018年4月号

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