2022年5月のある晩、国際層序委員会(ICS)の人新世作業部会(AWG)の会合がドイツのベルリンで開かれていた。ICSは地球の地質年代の認定を行う学術団体だ。ステージに上がった英レスター大学の古気候学者イェンス・ツィンケ氏が、透明なプラスチック製の容器から白い厚板を取り出した。
鉛筆ほどの太さの溝が1本刻まれたその板は、一見すると発泡スチロールのようだが、実際には岩のように硬い。これはサンゴのかけらなのだ。オーストラリアの東海岸から約250キロも離れたサンゴ礁フリンダース・リーフから切り出されたものだ。
この付近では「観光、農業排水、産業汚染といった通常の人間活動による直接的な影響はありません」とツィンケ氏は説明する。そう聞けば、手つかずの自然が残る場所に思えるかもしれない。
だが、人類は環境の変化を地球的な規模で、それも地質に永続的な痕跡を残す形で引き起こしている、という考え方が注目されている。だとすれば、人間から離れたところにあるフリンダース・リーフは、その変化を示す場所として理想的かもしれない。
第2次世界大戦後、人口や工業・農業活動の急激な増加により、人間が地球に及ぼす影響は急激に増大しており、この現象は「グレート・アクセラレーション(大加速)」と呼ばれている。
地球のシステムの変化は非常に大きく、すでに新しい地質年代に入ったと主張する研究者もいる。258万年前に始まった氷期と間氷期が繰り返された更新世と、約1万2000年からの温暖で安定した完新世を経て、私たち人類は「人新世」を作り出したのだという。(参考記事:「地球を変える「人類の時代」」)
そうだとしたら、人新世がいつ始まったのかを具体的に特定する方法が必要だ。ツィンケ氏は数十人の科学者とともにAWGの会合に出席し、人新世の始まりを示す場所の候補について話し合った。
「人新世が地質記録として存在しているのは確実です」と、AWGの会合に参加したアンソニー・バーノスキー氏は言う。氏は米スタンフォード大学のジャスパーリッジ生物保護区を管理する生物学者だ。「次のステップは、(人新世への)移行が明確にわかる場所、移行が始まった時期、移行のしるしを見つけることです。そのしるしは、地球全体で同じ時期に記録され、岩石の中に永遠に残るものでなければなりません」
現在検討中の候補地は12カ所ある。フリンダース・リーフはその1つだ。ここのサンゴは、海水から化学物質を取り込んで1年間に約1センチ成長するので、海水の化学的変化を正確に記録している。ツィンケ氏がサンゴから採取した鉛筆ほどの太さのサンプルをX線撮影すると、肉眼では見えない年輪のような成長線が現れ、サンゴに刻まれた正確な年代がわかる。氏がフリンダース・リーフで採取したサンプルは、300年以上前の1710年までさかのぼることができた。
300年間の大半は、サンゴの化学成分はほとんど変化していない。だが、1957年以降に、プルトニウムや放射性炭素といった放射性核種の含有量が急激に増加した。これは地上核実験の痕跡だ。また、サンゴには塩分と窒素の増加も記録されている。
「これらはすべて人間が地球に及ぼした影響を示しているのです」とツィンケ氏は言う。
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