嗅覚トレーニングの起源
嗅覚障害の有病率が多くの人を対象に調査されはじめたのは20年近く前のことだった。ドイツ、ドレスデン大学医学部の嗅覚・味覚クリニックの耳鼻咽喉科医トーマス・フンメル氏は、それらの科学文献を調べてみたところ、一時的または永久的な嗅覚障害を患う人が一般人口の5%近くに上ることに気付いた。それまで考えられていたよりも多い数字だ。
氏は、クリニックを訪れる患者を観察する中で、嗅覚障害が情緒面の健康や生活の質に及ぼす影響の大きさを直接知っていた。うつ病の兆候を示す患者もいれば、食欲不振で体重が減少し、栄養失調になる患者もいた。
フンメル氏は、患者が嗅覚を取り戻すための手助けをしようと決意した。嗅覚系の細胞には、生涯を通じて再生され続けるというユニークな性質があり、頭部の外傷や上気道の感染症によって嗅覚を失っても回復できることがある。また、特定の匂いを感じられなかった人が、その匂いに何度も触れることで感じられるようになることも実験で明らかになっていた。フンメル氏は、この方法を使えば患者を助けられるかもしれないと考えた。
仮説を検証するため、フンメル氏は40人の患者に、ラベルを貼ったガラス瓶から、バラ、レモン、ユーカリ、クローブの4種類の香りを10秒間嗅ぐのを、1日2回、12週間続けてもらった。これらの香りを選んだのは、ドイツの心理学者ハンス・ヘニングが1916年に提唱した6つの基本臭(花、果物、腐敗、薬味、焦、樹脂)のうちの4つを代表していたからだ。
効果を評価するため、フンメル氏らは、訓練の前後で被験者にさまざまな匂いを嗅ぎ分けてもらった。その結果、嗅覚訓練を受けた被験者では約30%に嗅覚の改善が見られたのに対して、嗅覚訓練を受けなかった集団では改善したのは6%だった。論文は2009年2月に医学誌「Laryngoscope」に発表された。
その後も、嗅覚訓練の効果について複数の研究が行われ、多くの場合で、平均すると小さな改善が観察されている。フンメル氏によると、25%程度しか改善しない場合もあれば、70%以上のこともあるという。訓練によって嗅覚がどの程度改善するかは、患者の年齢や、嗅覚を失ってから訓練を受けるまでの時間や、損なわれていた嗅覚の程度によって異なる。
「つまり、感染後の早い段階で嗅覚障害を訴えてクリニックに来る人は、2年後に来る人よりも回復の可能性が高いということです」とフンメル氏は言う。
嗅覚訓練に用いる香りの種類を増やすと、訓練の効果を高めることができる。フンメル氏は2015年6月に「Laryngoscope」に発表した研究で、12週間の訓練を受けた後、香りをメントール、タイム、タンジェリン、ジャスミンの4種類か、緑茶、ベルガモット、ローズマリー、ガーデニア(クチナシ)の4種類に置き換えてさらに12週間続けると、元の香りを24週間使い続けるよりも高い効果が得られることを示した。
嗅覚訓練を実施する理想的な期間や、最も効果的な香りの濃度については、まだ調整が続いている。米スタンフォード大学の頭頸部外科医で嗅覚障害の専門家であるザラ・パテル氏は、効果の大きさを数値化する方法はまだ非常に原始的だと指摘する。
現在、医師が嗅覚訓練の効果を測定する際には、4つの選択肢の中から正しい匂いを選ばせて訓練の前後のスコアを出している。匂いは合計40種類ある。パテル氏は、「きわめて主観的な方法であり、真に客観的な尺度ではありません」と言う。また、患者が育った場所や文化によっては、40種類のそれぞれになじみがあるとは限らない。
嗅覚訓練が嗅覚を改善させるしくみはまだ明らかではないが、科学者たちはいくつかの仮説をもっている。例えばフンメル氏は、嗅覚障害のある人に匂いを嗅がせることで、嗅細胞の再生が早まり、回復を促すのではないかと、げっ歯類を使った研究から得られた知見に基づいて考えている。
一方、ゴールドスタイン氏は、嗅覚訓練の刺激によって、新たに自然に形成された嗅細胞が生き残りやすくなると同時に機能も向上し、その細胞が脳とつながることで、嗅覚が回復するのではないかと考えている。
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