米国の独立戦争はこうして始まった、緊迫の一日を再現

仲間を救った「真夜中の疾駆」から「世界にとどろいた銃声」まで

2022.04.24
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ボストンのオールドノース教会前に立つポール・リビアの像。(PHOTOGRAPH BY IRA BLOCK/NATIONAL GEOGRAPHIC CREATIVE)
ボストンのオールドノース教会前に立つポール・リビアの像。(PHOTOGRAPH BY IRA BLOCK/NATIONAL GEOGRAPHIC CREATIVE)

 米国の独立記念日なら、知っている人も多いだろう。対して、その戦いの火ぶたが切られた日を知る人は少ないに違いない。

 16世紀に欧州からの入植がはじまって以来、北米の英国植民地は次第に独自の道を歩み始め、英国との対立は徐々に深まっていった。独立戦争が始まる何年も前から、北米の英国植民地では緊張が高まっていたが、ニューイングランドではとりわけそれが顕著だった。

 1775年4月18日の夜遅く、マサチューセッツ植民地の銀細工師ポール・リビアは、英国軍の攻撃が差し迫っていることを仲間たちに警告するために、馬を走らせていた。米国史に刻まれたいわゆる「真夜中の疾駆」だ。

 そして翌19日、ついに張りつめていた緊張の糸が切れる。米国独立戦争の引き金となった「レキシントン・コンコードの戦い」の勃発だ。(参考記事:「リンカーンではなかった? 米大陸初の奴隷解放宣言」

つのる不満

 1760年初頭、北米の英国植民地に暮らすほとんどの白人入植者は、英国人としての誇りを持ち、大英帝国の支配下で比較的満足した暮らしを送っていた。だが同時に、リスクをいとわない姿勢は自分たちの伝統であるという考えも幼い頃から染みついていた。

 彼らはみな、慣れ親しんだ古い世界を捨て、チャンスに満ちた新しい土地を目指して広い海を渡った者たちか、そうした人々の子孫だった。だから、新たな税制をはじめ、英国王室と議会が突然自分たちの日々の生活を支配し、夢の実現の前に立ちはだかろうとし始めたことに反発を覚えた。入植者の間に生まれた英国に対する不信感は、わずか十数年の間に激しい怒りと抵抗に変わっていった。(参考記事:「米国の首都ワシントンD.C.は、なぜ州ではないのか?」

自由を、さもなくば死を

 英国に対する反乱を声高に主張するようになった人物の一人が、バージニア植民地議会の議員で、愛国心に燃えるパトリック・ヘンリーだ。「人は平和、平和と叫ぶが、平和などない」。1775年3月、リッチモンドで開かれた第2回バージニア会議で、およそ120人の代表者を前に、ヘンリーは声を荒らげた。

「戦争は既に始まっている。次に北から吹いて来る疾風によって、我々は武器が鳴り響く音を耳にするだろう。同志たちは、既に戦場にいる。なぜ我々はただここでじっとしているのか……他の者がどのような道を取るのかは知らないが、私について言えば、自由を与えよ。さもなくば死を!」

【関連ギャラリー】米国の独立戦争はこうして始まった 画像8点(写真クリックでギャラリーページへ)
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第2回バージニア会議で、「自由を、さもなくば死を」という有名な演説を行ったパトリック・ヘンリー。(PHOTOGRAPH BY GRANGER, NYC — ALL RIGHTS RESERVED)

 自由と、人にはそれを有する権利があるという信念は、人間のありように対する新しい考え方だった(ただし、当時はまだ女性、奴隷にされた人々、米国先住民はこの対象に含まれていなかった)。1世紀以上かけて入植者の精神のなかで育まれ、成熟しつつあった「個人の自由」への思いは、あまりにもかけがえがなく、命をかけて戦うに値するものだった。

 ボストンにいた英国人司令官トマス・ゲイジは、入植者のこうした心情を理解し、自身が監督する町の住民たちが、おそらく他の植民地とともに戦いに備えようとしていることに気付いていた。ゲイジは、応援を求める手紙を本国に書き送り、入植者を過小評価してはならないと警告した。「1万の兵士で十分だとお考えなら2万を、100万の兵士で十分だとお考えなら200万を請う」。彼の警告はほとんど相手にされなかったが、英国はある程度の応援を派遣した。

 とはいえ、植民地側にはベテラン将軍もいなければ、正規の軍隊もなく、ただ「ミリシア」と呼ばれる民兵と、召集がかかればすぐに駆け付ける「ミニットマン」と呼ばれる精鋭部隊がいるだけだった。武器や弾薬は、各地に点在する町の武器庫に保管されていたが、その量もとても十分とは言えなかった。

深まる対立

 パトリック・ヘンリーによる演説の前の年、すなわち1774年12月、ニューハンプシャー沿岸の砦に保管されていた大量の火薬、大砲、小型武器をめぐって、英国兵と植民地兵の間で小競り合いが起きていた。ゲイジとともにボストンに配属されていた司令官の一人パーシー卿は、町中での緊張の高まりを見て、1775年4月上旬、「状況は日々悪化し始めている」と、祖国へ書き送った。食料やきれいな飲み水は不足し、自分たちの町を占領して通りをパトロールする英国兵に対して支援の手を差し伸べる住人はいなかった。

次ページ:英国軍は海から来るのか、陸から来るのか

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