マルクス・ラルザー氏は、生命の起源を研究するつもりではなかった。氏は主に、細胞が養分を取り込むプロセスや、このプロセスがストレスや病気によってうまく働かなくなる仕組みを研究していた。しかし10年ほど前、英ケンブリッジ大学に在籍していた氏のチームは、まったくの偶然から衝撃的な発見をする。
ラルザー氏らは当時、「解糖系」を研究していた。解糖系とは、細胞が利用できる形やエネルギー源になるように、体内で糖を分解する一連の反応のことだ。反応経路の各段階を高感度の技術で追跡していた氏らは、いくつかの反応が「勝手に起こっている」ように見えたことに驚愕したという。反応に必要な分子をいくつか欠いた比較対照実験でも、解糖系の反応の一部はたしかに起こっていた。
他の科学者から「そんなことはあるはずがない」と批判されたと、現在は英フランシス・クリック研究所に在籍するラルザー氏は振り返る。
人間の脳のニューロン(神経細胞)からごく単純な細菌まで、すべての細胞の中核には「化学エンジン」とでも呼ぶべきものがある。食物を分解してエネルギーを取り出したり、あるいは逆にエネルギー源を部品に変えて細胞を組み立てたりするプロセス、つまり「代謝」だ。いずれも生物には不可欠であり、代謝は生命の定義の1つによく挙げられている。
解糖系も代謝の1種だ。代謝は、多くの洗練されたミクロの仕組みがなければ成り立たない。しかしラルザー氏のチームは、これらの化学エンジンの1つが、不可欠だと思われていたいくつかの複雑な分子がなくても自然に動くことを発見したのだ。
この偶然の発見以来、生命の起源を研究する科学者の間で興奮の波が広がっている。試験管の中で代謝反応が起こるのなら、今から数十億年前に、深海の火口や陸上の温泉といった有機物が豊富で化学的活性の高い場所でも、同じ反応が起きていたのではないだろうか。さらには、代謝反応が、生命の誕生につながる一連の出来事の始まりだった可能性さえあるかもしれない。(参考記事:「40億年前の地球は生命誕生の「温床」だった」)
現在、いくつかの研究チームが、こうした化学エンジンをゼロから作り出そうとしている。科学者たちは、解糖系だけでなく、はるか昔の細胞に最初に出現したと考えられている「逆クエン酸回路(逆クレブス回路、逆TCA回路)」などの基本的な細胞過程の一部も再現できている。
この刺激的で新しい研究分野は、最初の生命を誕生させた過程について科学者たちに再考させるとともに、古くて新しい問いも突きつけた。それは「そもそも生命とは何か」という問いだ。(参考記事:「第3回 「生命が始まる最初の瞬間」を再現したい」)