ノートルダム 再建への道のり

2019年の火災で大聖堂上部が崩落、本格的な修復に着手へ

2022.01.28
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2019年4月に起きた火災で、尖塔(せんとう)と屋根が焼け落ち、ノートルダム大聖堂の中心部には巨大な穴が開いた。写真は上から見た状態だ。尖塔は石造りの天井を突き抜けて落下した。(PHOTOGRAPH BY TOMAS VAN HOUTRYVE)
2019年4月に起きた火災で、尖塔(せんとう)と屋根が焼け落ち、ノートルダム大聖堂の中心部には巨大な穴が開いた。写真は上から見た状態だ。尖塔は石造りの天井を突き抜けて落下した。(PHOTOGRAPH BY TOMAS VAN HOUTRYVE)
この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2022年2月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。

2019年4月、炎に包まれたフランス・パリのノートルダム大聖堂。中世の伝統を受け継ぎながら、2024年の完了を目指して修復が進む。

 暴徒たちが大聖堂の屋根によじ登り、巨大な十字架を引き倒した。ステンドグラスを割る者もいた。

 時は1831年2月14日の夜。フランスの首都パリを流れるセーヌ川の中州、シテ島で騒ぎが起きた。暴徒はそこに立つノートルダム大聖堂を襲撃し、キリスト像に斧(おの)を振り下ろし、聖母マリア像の一つをたたき壊した。だが憎悪の的であるパリの大司教は、そこにはいなかった。そこで彼らは大聖堂の南の川岸に立つ大司教公邸を襲い、火を放ったのだ。

 この1831年の火災では、ノートルダム大聖堂そのものは火の手を免れた。だが、大司教公邸はもう残っていない。その跡地には今、高さ75メートルのクレーンがそびえている。

 この騒ぎを川の対岸から描いたスケッチが残されている。描いたのはウジェーヌ゠エマニュエル・ビオレ゠ル゠デュク。13年後に大聖堂の修復に着手し、20年かけてその大仕事を成し遂げた人物だ。襲撃を目撃したときは、まだ17歳だった。暴徒が大司教公邸に押し寄せ、家具や貴重品を窓から川に投げ捨てるありさまを、急いで写し取った。騒ぎの背景にたたずむノートルダムは当時、創建から6世紀を経ていた。

外から見ると火災の傷痕が痛々しい。
外から見ると火災の傷痕が痛々しい。
足場と巨大なクレーンが、高さを追い求めた建造物をあざ笑うかのようだ。ノートルダムは過去にも損傷を受け、修復されてきた。19世紀の建築家ウジェーヌ゠エマニュエル・ビオレ゠ル゠デュクは、1831年にセーヌ川岸のこの地点から暴徒によるノートルダム襲撃を目撃し、後年、最初の修復工事を指揮することになった。(PHOTOGRAPH BY TOMAS VAN HOUTRYVE)

 そして1980年、やはり17歳だったフィリップ・ビルヌーブはパリ市内で開催されたビオレ゠ル゠デュクの回顧展を訪れた。彼はこのときすでに建築家を目指していたが、歴史的建造物の修復を専門とする道があることは知らなかった。

 ビルヌーブは今、フランス政府が認定した35人の「歴史的建造物主任建築家」に名を連ね、2013年からノートルダム大聖堂の修復工事を指揮してきた。だが、19年春に緊急事態が発生する。修復工事中に起きた火災で大聖堂の上部が崩落したのだ。今は建物の安定化工事がようやく終わり、いよいよ本格的な修復が始まろうとしている。ビルヌーブはその建築家人生で最も困難な大仕事となる目下の任務で、独創的な先人であるビオレ゠ル゠デュクに負うところが大きい。

「彼は歴史的建造物をよみがえらせる道を切り開きました」とビルヌーブは話す。「それまでは誰もやっていなかった。せいぜい修理するだけです。それも自分たちの時代の様式でね」。あるいは修理せずに、取り壊していた。

 フランス政府は19世紀に初めて、歴史的建造物の保存を担当する機関を設立した。この機関は、私たちすべてに関わる問いの答えを出すために組織的に取り組む。それは、保存して後世に伝える価値があるのは過去のどの部分か、祖先の創造物に私たちはどんな義務を負っているのか、という問いだ。その創造物があることで、私たちはどれほど力づけられ、心の安らぎを得ているのか。あるいは逆に、祖先の遺産が重石(おもし)となってのしかかり、私たち独自の創造を妨げるのはどんなときか。

 これらは、私たち一人ひとりが自分の小さな世界で、日々の仕事や生活で直面する問いでもある。何を守り、何を捨てるべきか、どんな変化に抵抗し、どんな変化を受け入れるべきか、誰もが日常的に困難な決断を迫られている。普段はあまり意識していないだけだ。そして、政府が下す決定が自分にも関わること、さらには古い建物が心のよりどころとなっていることも、普段はあまり意識していない。それに気づくのは、その建物の存続が脅かされたときだ。

 完成した当時、ノートルダムの建築様式は革命的なものだった。建設されたのは12世紀後半から13世紀にかけて。それはフランスが一つの国にまとまり始めた時代で、その首都となったパリは欧州最大の都市だった。先端のとがったアーチ、フライングバットレス(飛び控え壁)に支えられて高くそびえる薄い壁、そして内部にふんだんに光を取り込める巨大な窓。ノートルダムはフランスの新しい建築様式がもたらした最初の壮大な傑作だった。これを妬んだイタリア人は「がさつなゴート人風の」という意味を込めて「ゴシック」と呼んだが、このフランスの建築様式はたちまち欧州を席巻した。

 しかし19世紀初めには、ノートルダムは見る影もなく荒れ果てていた。1789年にフランス革命が始まる前から繰り返し襲撃を受け、放置されていたため、今にも崩れ落ちそうなありさまだった。作家のビクトル・ユゴーはこの惨状を見かねて、大聖堂とその周辺を舞台にした小説『ノートルダム・ド・パリ』を書き上げ、1831年、大司教公邸が放火された事件の翌月に世に出した。当時はフランス全土で、革命時代に接収された古い教会から石材が次々に盗み出されていた。ユゴーの小説をきっかけにして、略奪に待ったをかけ、古い建造物の保全を求める動きが高まり、若きビオレ゠ル゠デュクも大いに共鳴して、この運動に飛び込んだ。

次ページ:ノートルダムが炎上したあの4月の夜

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