2020年9月、クロナットの容態は深刻になった。シメオネ氏をはじめとするシックスフラッグスのクロナット担当チームは、食欲増進剤、鎮痛剤、ステロイド、抗けいれん剤など、効果が期待される薬をすべて試してみた。しかし、どれも効果はなかった。

 もうクロナットを安楽死させるしかないと思われたが、シメオネ氏は最後の望みをかけて、バラバン氏に助けを求めた。バラバン氏は、長年、てんかん治療に取り組んでおり、その一環として、ブタの胚から採取した脳細胞の移植も研究していた。マウスを使った実験では、ブタの細胞の移植が、発作の抑制と認知能力や身体能力の回復に効果的だった。シメオネ氏は、この療法がクロナットにも使えるかもしれないと考えたのだ。

 バラバン氏は支援を約束し、数週間のうちに神経外科医、研究者、獣医で構成されたチームが結成された。

移植手術

 2020年10月6日の朝、チームのメンバー18人が、サンフランシスコ近郊の動物病院に集まった。バラバン氏の研究室に所属する神経科学者、マリアナ・カサリア氏が、クロナットの手術に必要なブタの細胞を用意した。数十年にわたって、学者たちは、ブタが人間に臓器を提供できるかどうか研究してきた。ブタの臓器は、脳も含め、大きさも機能も人間の臓器とよく似ているからだ。

 カサリア氏は、ブタの胚から特殊な神経系の未分化細胞を抽出する技術を開発していた。脳が発達する過程で、こうした細胞は海馬に移動して抑制性神経細胞となり、脳の過剰な興奮を抑え、電気的活動の微妙なバランスを維持する。てんかん患者の脳では、こうした抑制性神経細胞の多くが失われたり損傷したりしている。

「こうした細胞をマウスに移植すると、マウスのてんかんが完治するのです」とバラバン氏は話す。

 しかし、バラバン氏のチームは、アシカの手術をするのは初めてだった。ブタの細胞をクロナットに移植する前に、クロナットの発作が起きる部位を突き止める必要があった。そこで、最初にMRIとレントゲンでクロナットの海馬を調べた。脳の奥深くにある海馬は学習と記憶に関わる領域で、特に発作が起きやすい場所だ。クロナットの海馬には、明らかに脳損傷の症状が見られた。海馬の左側が傷つき、縮小していたのだ。

 医師たちは、クロナットの脳の暴走する電気的活動を抑えるため、海馬の左側に約5万個の細胞を4回に分けて注入した。これらの細胞のうち、最終的に脳に生着するのはわずか10%から20%だ。クロナットの頭蓋骨に穴を開ける作業も含め、この手術全体に5時間が費やされた。

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