2020年10月、7歳のアシカ「クロナット」が実験的な脳外科手術を受けた。健康なブタの神経細胞をクロナットの損傷した海馬に移植するというものだ。
それから1年以上が経つが、クロナットに発作は起きていないと、この試みを主導した米カリフォルニア大学サンフランシスコ校の神経科学者、スコット・バラバン氏は言う。手術後に衰えていたクロナットの食欲と体重は、正常なレベルに回復した。以前より社交的になり、左右を見分けるなど新しいスキルも学んでいる。
この手術は、てんかんの新たな治療方法に道を開くものだが、人間に適用するにはまだ何年もかかりそうだと研究者たちは考えている。
米国では、国民の約1.2%にあたる340万人が活動性てんかんを発症しており、けいれんの発作が起きたり、周囲への認知機能が低下するといった症状がある。30種類以上の発作抑制薬が出回っているものの、約3分の1の患者には効果がない。(参考記事:「記憶とは何か―脳はどう覚え、保ち、失うのか」)
米ユタ大学の薬理学・毒物学教授であるカレン・ウィルコックス氏は今回の移植手術には参加していないが、バラバン氏らのチームが開発したこの細胞療法が、いつの日か、現在の薬剤では効果がないてんかん患者に希望をもたらすかもしれないと考えている。
クロナットに移植された細胞は、てんかんを引き起こす脳の異常活動を抑制するためのものだった。現在の抗てんかん薬の多くも同じような働きがあるが、抗てんかん薬は脳全体に作用するため、気分変動を伴う多くの不快な副作用をもたらすことがある。
「発作が生じる部分だけを集中的に治療できれば、脳の他の部分を抗てんかん薬の副作用から保護できるかもしれません」とウィルコックス氏は話している。
クロナットの物語
無気力で混乱状態のアシカ、クロナットが岸に上がって動けなくなり、米カリフォルニア州にある大型アミューズメントパーク「シックスフラッグス・ディスカバリーキングダム」に運ばれたのは、2017年のこと。
クロナットの脳は損傷していた。藻類の異常発生(藻類ブルーム)がもたらす神経毒「ドウモイ酸」にさらされたためだ。この毒素は、アシカなどが餌とする小魚や甲殻類に蓄積する。
2014年、米スタンフォード大学の研究者たちが行った調査で、ドウモイ酸への暴露がアシカの脳に損傷をもたらすことが明らかになった。この損傷は、てんかんで最も多い側頭葉てんかんを患う人間の病変と類似している。(参考記事:「藻類の毒でアシカに記憶障害、大量漂着の原因か」)
同年、メキシコからアラスカまでの太平洋沿岸で海洋熱波が発生し、244例のアシカのドウモイ酸中毒が報告された。カリフォルニア州の海洋哺乳類センターの調査によれば、ここ数年の間、毎年100頭以上のアシカがドウモイ酸中毒で体調を崩し、その多くが死亡している。また、アザラシ、ラッコ、クジラのドウモイ酸中毒も報告されている。
「有害な藻類ブルームは拡大し、常態化しています」と、クロナットを当初から診療してきた獣医で、海洋哺乳類センターの前獣医部長であるクレア・シメオネ氏は語る。「藻類ブルームが消えることはなさそうです」。気候変動、そして肥料や雨水、廃水の流出の増加が、こうしたブルームが増殖する最大の原因になっている。
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