船の案内役として大活躍
プトレマイオス朝初期のファラオたちは、この他にも数多くの建造物を残しているが、大灯台はそれらに引けを取らない堂々とした塔だった。古代ローマの博物学者プリニウスは、建造にかかった費用が800タラント(銀およそ23トン分)だったと書き残している。これは、王家が所有していた全財産の約10分の1に相当した。一方、この灯台の1世紀半前に建てられたギリシャのパルテノン神殿の建造費は、およそ469タラントだった。
大灯台はその役割を見事に果たし、船乗りたちを安全に港へ導いた。ユダヤ人歴史家のヨセフスによると、灯台の高さは100メートル以上あり、55キロ先(船が1日に進む距離)からでも見えたという。
灯台の燃える火は、夜間は星と見間違えるほど明るく輝き、日中は、立ち上る煙を遠くからでも確認することができた。木があまり手に入らなかったエジプトでは、油やパピルスを燃料にしていたのだろうと、多くの学者たちは考えている。
また、磨き上げられた大きな金属板かガラスの一種を鏡のようにして、炎の明かりを反射させていたとも言われている。この大灯台に魅了された中世のアラブ人著述家たちは、この鏡を使って太陽光を集め、それを敵の船に反射させて、港へ近づく前に燃やしていたのだろうと、想像をめぐらせていた。
なかには、海岸が霧に包まれた時に使う霧笛のような機能も備えていたと考える学者もいる。あるアラビア語の記録には、灯台から「恐ろしい声」が聞こえてきたという記述がある。どうやって音を出していたのかはわかっていないが、灯台の最上部に置かれたほら貝を吹く海神トリトンの像が、ただの飾りではなく、何か実用的な機能を果たしていた可能性があると考えられている。
ローマの硬貨のモチーフにも
大灯台は建設直後から称賛を集め、古代世界の七不思議に加えられた。ユリウス・カエサルも間近で灯台を見て、その高さと優れた技術に感嘆したという。
この大灯台は、街の誇りと偉大な事業の象徴として、西暦81~192年にアレクサンドリアで鋳造されたローマの硬貨にも彫り込まれた。とはいえ、時とともに老朽化は進む。紀元前1世紀半ばにはすでに、プトレマイオス朝最後の女王であるクレオパトラ7世が、初の修復事業を命じている。(参考記事:「古代エジプト最後の王、クレオパトラの子カエサリオンの悲劇」)
それから約700年後、アラブ人がエジプトを征服した時も、灯台はまだ残っていたが、中世にエジプトを襲った地震によって少しずつ崩壊していった。14世紀に、モロッコの著名な旅行家イブン・バットゥータが、灯台の惨状を嘆く記述を書き残している。
1477年、マムルーク朝のスルタンが、廃墟と化した灯台の残骸を再利用してカーイト・ベイの要塞を建設した。この要塞は、今もエジプトに建っている。アレクサンドリアの大灯台は、世界の七不思議のなかでも、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟とギザの大ピラミッドに次いで、長く存在した建造物だった。(参考記事:「世界の七不思議「バビロンの空中庭園」の謎を追う」)
オスマン・トルコからアレクサンドリアを守るために、マムルーク朝のスルタンであったカーイト・ベイが、1477年に大灯台の跡地に建てた要塞。大灯台の残骸を再利用して建設された。(HISHAM IBRAHIM/GETTY IMAGES)
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