米国時間で1941年12月7日、当時、準州だった米ハワイのオアフ島で食料品店を経営していたマサオ・アサダさんは、真珠湾の近くで配達を終えたところだった。突然、大きな爆音がした。太平洋に面した潟では以前から浚渫(しゅんせつ)工事が行われていたので、特に気に留めなかった。ところが、いつまでたっても爆音は止まないどころか続く。
トラックに乗り、米国海軍と陸軍が使用していた埠頭へ向かうと、途中で別の自動車の運転手に止められた。「逃げろ!これは訓練じゃない。戦争だ!」アサダさんが空を見上げると、日本の戦闘機が飛んでいるのが目に入った。
この日、数千人とともに真珠湾攻撃を目撃したアサダさんの証言は、何年も後になってまとめられた口述記録に残されている。日本軍による90分ほどの攻撃だったが、その後、世界の歴史の流れは大きく変わることになった。
攻撃前夜
20世紀に入ってから緊張が高まっていた日本と米国の関係は、1937年に日中戦争が始まり、民間人の犠牲者も出始めたことで急激に悪化した。1940年になると、事態は自分たちの利権にも影響を及ぼすほど深刻であると、米国は感じるようになった。そして、中国に対して軍事支援を行い、日本へ経済制裁を加えた。1940年に、日本がナチスドイツおよびイタリアと日独伊三国同盟を締結し、さらに1941年にソ連と日ソ中立条約を交わすと、米国は国内にある日本の資産を凍結し、対日石油輸出を全面的に禁止した。
その頃ヨーロッパでは、ナチスドイツが勢力を拡大していた。それまで中立的な立場をとってきた米国だが、日本とドイツの戦争によってその立場は危うくなっていった。
米国の中立性は、当時国内世論を二分する最も激しい議論になっていった。第一次世界大戦の記憶もまだ新しく、世界恐慌から回復途上にあった頃、海外での戦争に参戦することに反対する国民は多かったが、その一方で苦しい状況にある同盟国を助けるべきだとの声も強かった。そこでフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、武器貸与法に署名し、英国や中国などの同盟国へ武器と軍装備品を提供した。
中国との戦争が長引くにつれ、米国との対立は避けられそうにないと悟った日本の軍部は、自分たちの選ぶ道を検討し始めていた。米国海軍は手ごわい。日本の対東アジア構想の前に立ちはだかる米国の存在をかき消すだけの戦力を、当時の日本は持ち合わせていなかった。 (参考記事:「米兵もむせび泣いた硫黄島の激戦、75年前の傷癒えぬ元兵士は語る」)
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