巨大レストラン事業や料理本、料理番組など、現代の有名シェフたちはさまざまな場面で活躍している。そんなセレブ・シェフが最初に誕生したのは、19世紀のフランスだった。
フランス革命の後の数十年間に、世界初の料理帝国を築いたシェフ、アントナン・カレーム。彼は複数の店舗を構え、特権階級にケータリングを提供し、ベストセラーの料理本を何冊も出版した。著書はまた、伝統的なフランス料理の調理法を包括的に解説した、世界で最初の本ともなった。現代のシェフたちと同じように、カレームは芸術家であり、学者であり、科学者であり、自分を売り込む努力を惜しまない人物だった。
カレームの作品として今日最もよく知られているのは、糸状のあめとアーモンドペーストを使って建築物や風景を模した「ピエス・モンテ」と呼ばれる大型の装飾菓子だろう。
革命後においても、フランス貴族たちは、食卓の中央に置く豪華な装飾品を求めた。
そうした派手な作品を作りつつも、カレームは、特権階級が好む手の込んだご馳走と、中産階級が増えてきたことを受けて提唱したモダンでシンプルな料理との、橋渡しを行った。カレームが登場するまでは、「ご家庭で試してみてください」などと言う人はいなかったのだ。
貧困を乗り越えて
1784年、カレームはパリの貧しい家庭に25人兄弟の一人として生まれた。もともとの名前はマリー・アントワーヌ。カレームの幼少期はフランス革命の暗い影に覆われていた。10歳の時、彼を捨てた父親はこう言った。「これからは富の時代になるだろう。富を築くのに必要なのは知性だけ。おまえにはそれがある」(参考記事:「フランス革命はいかにしてメートル法を生んだか」)
この言葉を胸に、幼き日のカレームは、酒場の厨房で住み込みの仕事を始めた。1794年のパリと言えば、「恐怖政治」と呼ばれる、革命後の大規模な逮捕・処刑の時代に突入していた。カレームが後に名前をマリー・アントワーヌからアントナンに変えたのも、1793年にギロチンにかけられた王妃マリー・アントワネットを連想させる要素を取り除くためだったかもしれない。(参考記事:「フランス革命の発火点 民衆に襲撃された監獄とは?」)
1798年、カレームは酒場を辞め、一流パティシエであるシルヴァン・バイイの助手となった。ここで彼はパティシエとしての技術を習得し、細工菓子で見事な構造物を作れるようになった。また、食だけでなく建築への飽くなき探究心を満たすため、夜は独学で読み書きを学んだ。バイイに国立図書館の版画・彫刻室を訪れることを勧められたカレームは、そこで城やピラミッド、噴水などの建築物をスケッチし、自身の作品のインスピレーションを得た。
当時のフランス料理界の主役は、菓子職人やパティシエたちだった。バイイが抱えていた富裕層の顧客に支持されるようになったカレームは、1803年、19歳で独立し、ラ・ペ通りに自らのパティスリーを開いた。ここで彼は、「風に乗って飛んでいく」ほど軽く膨らんだパイ菓子「ヴォロヴァン」をはじめ、現在でも人気のある菓子を考案した。こうした菓子は人気を博し、カレームは、数日かけて作るような作品を受注するようになった。
カレームがパリのラ・ペ通りに自らの最初のパティスリーを開いたのは、19歳のときだった。その若さにもかかわらず、正面のウィンドーに華麗な菓子を飾ったこの店は、街のランドマークとなった。カレームはタレーランの仕事と並行して、1815年までこの店を経営。その後、パリにパティスリーが増えてくると、カレームはその人気を自分の影響だと考えた。「郊外のパティシエたちは、私の本を手にしたことで、首都の中心部に進出することを恐れなくなった」。カレームが発明したとされる菓子の中には、「ナポレオン(ミルフィーユ)」のように、現在も食べられているものがある。(AKB/ALBUM)
豊かな食生活
顧客の中には、当時最も有名な政治家であり美食家でもあった、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールがいた。タレーランは1803年、ナポレオンの資金提供を受けてパリ郊外のヴァランセ城を外交の場として購入する。その後、タレーランは当時21歳だったカレームを雇った。
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