イカの遺伝子を編集して脳の謎に挑む科学者たち

大きな可能性を秘めた新たな研究が始まっている

2021.08.02
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米マサチューセッツ州ケープコッドの沖合には、毎年春になると多くのアメリカケンサキイカが産卵のために集まってくる。(BRIAN J. SKERRY)
米マサチューセッツ州ケープコッドの沖合には、毎年春になると多くのアメリカケンサキイカが産卵のために集まってくる。(BRIAN J. SKERRY)
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イカの特殊能力、RNAの高速編集

 ウッズホール海洋生物学研究所でCRISPR研究チームを率いる分子生物学者のジョシュア・ローゼンタール氏は、アメリカケンサキイカが神経細胞内のRNA分子を高速で変化させる特殊な能力を調べている。イカはこの能力を利用して、体の各部での遺伝子の働きを調節している可能性があるが、まだ確実なことはわからないと氏は言う。

 イカのRNA編集の仕組みが解明されれば、人間の病気の治療につながる可能性がある。ローゼンタール氏が共同で設立したバイオテクノロジー企業は、人間の肝臓、目、中枢神経系の疾患を念頭に、DNAを書き換えずに有害な変異を修正する技術を目指し、イカのRNA編集を研究している。

 しかし、このような頭足類の謎を解明するには、その遺伝子を調べる必要がある。それには、完全な遺伝情報の情報と、その遺伝情報を利用する能力、そして実験室で頭足類を飼育する技術の3つが必要だ。

 マウスやショウジョウバエや線虫などの古典的なモデル生物では、何十年も前からそれらが可能になっていて、生物学や医学に数えきれないほどの恩恵をもたらしてきた。しかし、進化上の例外だらけの頭足類は、遺伝学研究に適しているとは言い難かった(タコが水槽から逃げ出す能力をもつことは有名だが、理由はそれだけではない)。

 ローゼンタール氏のチームがイカのたった1つの遺伝子を編集するのにたいへんな苦労をしたことは、その難しさを物語っている。

なぜイカのゲノム編集は難しいのか

 最初のハードルは、アメリカケンサキイカのゲノム(全遺伝情報)の解読だったと、ゲノム解析を担当したウッズホール海洋生物学研究所の神経生物学者キャリー・アルバーティン氏は話す。「頭足類のゲノムは大きくて複雑なのです」

 ヒトのゲノムが約32億文字(塩基対)であるのに対し、アメリカケンサキイカのゲノムは約45億塩基対もあり、その半分以上が反復配列からなる。これらの文字の並びを解読、決定する作業は、何もない青空を描いた巨大なジグソーパズルを組み立てるようなものだったとアルバーティン氏は言う。

 次の難問に直面したのは、遺伝子編集に取りかかろうとしたときだった。他のイカと違って、アメリカケンサキイカの卵には厚いゴム状の卵膜があり、CRISPR-Cas9(酵素)を卵に注入するのが難しかったのだ。針が十分に刺さらなければCRISPR-Cas9は卵に届かず、刺さりすぎれば卵はダメになってしまう。

「何年間もみじめに失敗し続けました」と米セント・メアリーズ・カレッジ・オブ・メリーランドの発生学者で、遺伝子編集チームのメンバーであるカレン・クロフォード氏は振り返る。

 クロフォード氏は大西洋での漁から絶え間なく供給されるイカの卵を使って試行錯誤を重ね、ついに小さなハサミを使って卵膜に切れ目を入れる方法を編み出した。切れ目は針を通せるほど大きいが、針を通した後に再接着できる程度の小ささだ。

 研究チームが最初にノックアウトの対象に選んだのは、イカの色素形成をつかさどる遺伝子だった。遺伝子編集がうまくいったかどうかを容易に確認できるからだ。結果は目論見どおりになった。遺伝子編集されていないイカはカラフルな色素胞でまだら模様になっていたが、遺伝子をノックアウトされたイカはガラスのように透明だった。

 これは、イカをはじめとする頭足類を遺伝子研究に利用するための重要な一歩だ。研究チームは前述の通り論文を発表し、遺伝子編集を行ったイカの細胞の90%でこの遺伝子がノックアウトされていたと報告した。

2匹のアメリカケンサキイカの幼生。左の個体は正常な色素(黒と赤褐色の点)をもつが、右の個体はTDO(トリプトファン2,3ジオキシゲナーゼ)遺伝子の編集により色素をもたない。どちらも墨袋は黒い。(PHOTOGRAPH BY KAREN CRAWFORD, SMCM)
2匹のアメリカケンサキイカの幼生。左の個体は正常な色素(黒と赤褐色の点)をもつが、右の個体はTDO(トリプトファン2,3ジオキシゲナーゼ)遺伝子の編集により色素をもたない。どちらも墨袋は黒い。(PHOTOGRAPH BY KAREN CRAWFORD, SMCM)
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