そんな二世の愛国心が示されたきっかけは、1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃だった。陸軍には当時、約5000人の二世が所属していたが、そのほとんどがハワイの陸軍州兵だった。彼らは、真珠湾の攻撃を受けて直ちに出動し、対応に当たった。その後、ハワイ準州が管轄するハワイ領防衛軍に日系人学生の入隊希望者が殺到し、本土でも軍隊への志願者が続出する。
彼らは米国のために戦い、死ぬ覚悟すらあったにもかかわらず、世間からは日系人というだけで、その忠誠心を疑問視された。ハワイの二世州兵は、銃と弾丸を取り上げられ、他の兵士から隔離されて、塹壕を掘ったり鉄条網を設置するといった肉体労働を命じられた。
1942年、二世は突然部隊の解散を告げられ、何の説明もなく除隊させられた。ところがその翌日、二世以外が全員集められて、部隊は再結成されていた。
それから1カ月後、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、管理地域を指定する権限を軍に与える大統領令9066号に署名した。軍は住民の立ち退きを求められるとされていたが、ここでいう住民とは、暗に日系人を意味していた。
この大統領令を法的根拠として、約12万人もの日系人強制収容が正当化された。本土では、主に西海岸を中心に全土から日系人が集められたが、ハワイでは住民の40%以上を占める日系人を全て立ち退かせることは非現実的とされ、全面的な収容は行われなかった。(参考記事:「「転住」だと思われた米国日系人の強制収容」)
また、既に入隊していた本土の二世は、異動や除隊を命じられたり、単調な仕事をあてがわれた。
米国への忠誠を示すために
米国内で燃え上がる反日感情にもかかわらず、軍隊への入隊を希望する二世は後を絶たなかった。ハワイでは、防衛軍から除隊させられて失望していたハワイ大学予備役将校訓練課程の二世学生が、ハワイ軍政知事のデロス・エモンズに国のために戦わせてほしいと願い出た。
「私たちが知る忠誠はただ一つ。星条旗への忠誠だけです。どこであろうと、あてがわれた場所で奉仕するため、身を捧げる所存です」
そう書かれた嘆願書を受け取ったエモンズは、155人の日系人学生から成る大学勝利奉仕団を編成し、塹壕や兵舎の建設に当たらせた。
一方、武器を取り上げられ、隔離されていた州兵の二世も、オアフ島での任務を許可され、海岸警備の任務を忠実に遂行していた。だが1942年5月、彼らの運命は大きく変わってしまう。